藤田宜永 過去を殺せ     1  バックミラーに、茶色いルノー14GTLが映っていた。  尾行。数日前から、新坂五郎《にいざかごろう》は背中に感じるものがあった。尾行者は十中八九、警官に違いない。  だが、新坂は慌てなかった。数年前から、パリ警視庁が、自分に目をつけていることは、彼自身も、充分に承知していた。  時々、思い出したかのように、警官は新坂の動きを監視する。特に、大きな強盗、窃盗事件が起こった直後は、マークが厳しくなるのだ。  十日ほど前、ニースで宝石商が襲われたのを思い出した。どうやら、その事件のせいで、尾行がついたらしい。だが新坂は、その事件には、まったく関係なかった。  新坂のアウディ・クーペ2・2Eは、緩やかな斜面を下り、セーヌ河岸に出た。エッフェル塔の方に向かってつっ走る。シトロエンGSを一気に抜いた。  ルノー14は車線変更をせず、シトロエンの後を走っていた。目立たぬよう、慎重に行動しているらしい。  暑い日だった。夏のバカンスが終わり九月の声を聞いても、いっこうに残暑は弱まりそうにない。セーヌの川面に光る陽光を蹴《け》ちらしながら、観光船が、半袖《はんそで》姿の客を乗せて通りすぎて行く。  エッフェル塔の前を通過し、ミラボー橋のところを左折した。  エミール・ゾラ大通り。センベーヌは、その通りに住む情婦のアパートに転がりこんでいるのだ。  アタッシェ・ケースを持って路上に立つ。問題のルノーはミラボー交差点のところに停《と》まっていた。  新坂は時計を見た。午後三時二十分。ピエロも、おっつけ現れるはずだ。  旧式のエレベーターで六階まで上がる。  赤いタンク・トップを着た小柄な金髪女がドアの隙間《すきま》から来訪者を確かめる。チェーンが外され、新坂は部屋に入った。 「よく来てくれたな」  上半身、裸のままセンベーヌが新坂を迎えた。黒光りのする肌。顎《あご》から耳にかけて髭《ひげ》で被《おお》われている。鉛色の分厚い唇。目に被《かぶ》さるように腫《は》れぼったい瞼《まぶた》。センベーヌはセネガル人である。押し込み強盗の常習犯で、この七月にも�フランス革命二百年祭�の馬鹿騒ぎのさなか、パッシーにあるアパートに押し入り、貴金属を奪った。  そのブツを新坂が買い取ることになっているのだ。  見すぼらしい居間の横に、薄汚れたキッチンがあった。ソファの前のガラス製のテーブルの上には、カルスバーグの缶が七、八個並んでいた。 「マルチーヌ、ビールを持ってきてくれ」  センベーヌがキッチンのテーブルの前に座っていた女に言った。 「ないよ。さっきのでお終《しま》いだよ」  金髪女はトランプを切っていた。暇つぶしに占いでもやっているらしい。 「もうねえのかよ……」  センベーヌは髭を撫《な》で、顔をしかめた。 「センベーヌ、ブツを早く見せてくれ」 「今度のは上物だぜ。いい値をつけてくれよ」そう言いながら、セネガル人は寝室に消えた。  金髪女は、トランプ札を一枚握って、口をポカンと開け考えている。  たった五十三枚のカード。それが人の運命を狂わせる。新坂の躰《からだ》に、最後にカードを手にした時の、地獄に突き落とされたような瞬間が甦《よみがえ》った。  センベーヌが、ズダ袋を持って居間に戻ってきた。ビールの空缶を右手の甲で払い落とし、袋の中味をテーブルの上にぶちまけた。  新坂はルーペを取り出し、宝石類の値踏みを始めた。ダイヤ、サファイア、ルビー……。どれもこれもハンパなブツばかりだった。 「どうだい、いくらになる?」センベーヌが新坂を覗《のぞ》きこんだ。 「九万フラン」 「何だと!!」セネガル人は汚らしい歯を剥《む》き出し、新坂を睨《にら》む。両手がぎゅっと握られた。 「全部で九万フランだ」新坂は冷たい目をセンベーヌに向けた。 「なめんなよ。これだけあれば、十五万は下らねえぜ」 「他《ほか》の奴《やつ》と取引するんだな」新坂はルーペを上着のポケットに入れ、立ち上がった。 「十二万でどうだ」  駆け引きには乗らない。新坂は、これまで一度も、初めに口にした値段を崩したことはないのだ。 「九万。それ以上は出さない」  センベーヌの額に汗がにじんだ。  金髪女がトランプを止《や》めて、じっと新坂を見ていた。  ドアが静かにノックされた。一度、そして三度続けて。センベーヌがソファの間に手をつっこみ、H&KP7を取り出した。 「俺《おれ》の仲間だ。中に入れてやってくれ」  金髪女とセンベーヌが戸口に向かった。センベーヌは拳銃《けんじゆう》を構えて壁際に立った。金髪女がドアを開けた。  背の高い縮れ毛の少年が入ってきた。ピエロ。新坂のために働いている十六歳のジプシーだ。大きな黒い瞳《ひとみ》。濃い眉《まゆ》。耳が異常に大きい。  ピエロは、黙って新坂の前に立った。指示を待っている。いつもそうなのだ。仕事中のピエロは、表情ひとつ変えずに、ロボットのように振る舞うのである。 「センベーヌ、どうする。取引するのかしないのか」 「クソ! 持っていけ」  新坂はアタッシェ・ケースの中から、札束を取り出し、テーブルの上に積んだ。  金髪女がやって来て、テーブルの横に座った。死んだ魚のような目が、札束を見て生き返った。女が、札束に手をのばした。 「触るんじゃねえ、マルチーヌ」センベーヌがわめいた。 「いいじゃないか、あんた。私だって、いくらかもらう権利が……」  新坂は、惨めったらしい内輪|揉《も》めを無視し、ピエロに目で合図を送った。ピエロは、担いでいたデイパックを下ろし、ブツをその中にかき入れた。  センベーヌが金をあらため、新坂を見てうなずいた。ピエロが立ち上がった。用心のためにルーペも少年に渡す。 「こんなガキに、ブツを運ばせるのか?」センベーヌが、小馬鹿にしたように言った。 「こいつは、とても優秀だよ。あんたなんか足下にも及ばない」 「途中で、クスネるんじゃねえぜ、ジプシーの坊や」  新坂は、素早くセンベーヌの胸ぐらをつかみ、テーブルの上に顔を押しつけた。イガグリ頭がガラスにぶつかり鈍い音を立てた。金髪女が悲鳴を上げた。センベーヌの抵抗する左手の手首を取る。そして、腕をテーブルの角に当て、強く上から力を加えた。 「俺の仲間に、そういう口を利くんじゃない」  札束の間で、センベーヌの鉛色の唇が喘《あえ》いでいる。濁った目が放心したように新坂を見つめていた。 「わ、悪かった、か、勘弁してくれ。ちょっとした冗談だよ……」  汚い唾《つば》が机の上に流れた。新坂は腕を離した。センベーヌは、ソファに躰《からだ》を投げ出し、首と腕をさすった。 「さあ、行け」新坂はピエロに言った。「ミラボーの交差点に茶色いルノー14が停まってる。サツの車だ」  ピエロは黙ってうなずき、部屋を出た。  沈黙が流れた。新坂は煙草《タバコ》を取り出し、火をつけた。 「あんた、サツに尾行されてるのか?」センベーヌが、上目遣いに新坂を見た。 「四六時中、見張られている」 「それを知っていて、ここに来たのか」センベーヌが眉をひそめた。 「サツを怖がって、休業していちゃ、飯の食い上げだよ」 「しかし……」 「今、あんたは、指名手配されてはいない。何をオタついてるんだ。それに、俺はあんたに会いに来たんじゃない。マルチーヌとかいう別嬪《べつぴん》に会いにきた。それで、ことは済む」 「あんたには負けるよ、�彫像《スタチユ》�……」センベーヌが弱々しく笑った。 �彫像�。新坂につけられた渾名《あだな》である。だが、彼は渾名のいわれを知らない。がっしりとした躰をしているから、そう呼ばれるようになった。それくらいの見当しかついていなかった。  新坂は煙草を消し、立ち上がった。 「そうだ。伝言があったんだ、あんたに」センベーヌが言った。 「誰《だれ》から?」 「�ピガールのドン・ジュアン�の下で働いているポールって野郎からだ。何でも、至急、連絡して欲しいとのことだ」 「なぜ、奴が俺に? �ピガールのドン・ジュアン�たちのブツは大概、マルセルとかいう故買屋が……」 「マルセルは病気で入院した。なんでも、噂《うわさ》じゃエイズだそうだ」センベーヌの口許《くちもと》が緩んだ。 �ピガールのドン・ジュアン�。ピガールで売春バーを七軒経営し、他にも、麻薬の売買や宝石の強盗を陰で操っているギャングである。本名はフェルナン・プレジャン。もう七十近い歳なのだが引退などせずに、パリの暗黒街を牛耳《ぎゆうじ》っている。奴の趣味は、オペラ鑑賞なのだ。とりわけ、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が好きらしい。ドン・ジョヴァンニをフランス語に直すとドン・ジュアンになる。  新坂は、一度、シャンゼリゼの裏のキャバレーで見たことがあるだけ。仕事はおろか、口を利いたこともない相手だった。 「連絡先は?」  センベーヌが、電話機の横のメモ帳の間から一枚の紙を引き出した。  新坂は、それをじっと見て、メモにライターで火をつけた。  外に出た。陽差《ひざ》しはまったく翳《かげ》りを見せていない。何台か車をやり過ごし、車道を渡った。  アウディのドアを開けた時、背後で足音が聞こえた。振り返った。ふたりの男が立っていた。  赤みがかった白い顔の男が、新坂を見てにっと笑った。髪はプラチナ・ブロンドで、眉も髭《ひげ》も同じ色だった。その色のせいで、一見すると、眉を剃《そ》っているように見え、顔に異様な雰囲気が漂っている。ブルーの目は鋭く、顎《あご》はいかつい。  ツェリンスキー警視。新坂に目をつけたのは、このポーランド系の警官が最初だった。 「�彫像《スタチユ》�、元気そうだな」  新坂は無言のまま、ツェリンスキーを見つめ返した。  ツェリンスキーは、新坂の手からアタッシェ・ケースを取った。 「両手を、車の屋根につけ、足を開け」  新坂は言われた通りにした。通行人が、皆、ジロジロと新坂を見ていた。  身体検査。何も出てくるはずはない。  ツェリンスキーの部下が、アタッシェ・ケースをボンネットの上に置き、新坂のポケットをまさぐり、勝手に取り出したキーホルダーから、鍵《かぎ》を選んでいる。 「お前が誰のアパートから出てきたか当ててやろうか」 「やって見てくれ」 「センベーヌの女のアパートだろう」 「センベーヌ? 知らないな」  ツェリンスキーは、じっと新坂を見つめ、短く笑った。 「観念しろ。アタッシェ・ケースの中味を見れば分かる」 「警視……」部下が呼んだ。情けない声だった。「何もありません」 「何だと、そんなことがあるもんか」  ツェリンスキーは、新坂から離れアタッシェ・ケースを覗《のぞ》きこんだ。  中味は今朝の朝刊。封を切っていない煙草。滞在許可証や免許証の入った革ケース、サングラス……。  ツェリンスキーが、憎々しげに新坂を見つめ、力一杯、ケースを閉めた。 「もう行っていいかな」  ツェリンスキーが笑った。 「どうやったのかは知らんが、なかなか見事だ。ほめてやるよ。だが、お前が、故買屋だってことは分かってる。必ず、俺の手でお前を挙げてやる」 「ケース、返してくれないか」 「ジョルジュ、返してやれ」  アタッシェ・ケースを手渡された新坂は、車に乗り込んだ。ツェリンスキーと部下は、ルノー14に向かって歩き出した。その背中を見ながら、新坂は煙草に火をつけた。     2 �ピガールのドン・ジュアン�の手下、ポールに連絡を入れると、新しい連絡先を教えられた。  どうやら、仕事を頼みたい人間は、�ピガールのドン・ジュアン�自身らしい。  次の連絡先にかけると女が出た。午後九時に、ヌイイ地区のシャトー大通りに来て欲しいと言われた。  新坂はアパートには戻らず、シャンゼリゼの地下駐車場に車を入れ、冷房完備と書かれた映画館に入り、暇をつぶした。  現行犯逮捕に失敗した直後である。ツェリンスキーたちにつけられている心配はないはずだが、アパートに戻るのは念のために避けたのだ。  午後八時半すぎ、食事をすませた新坂は、ヌイイに向かった。  ヌイイ地区は、シャンゼリゼから車で十五分ばかりのところにある超高級住宅街である。  広い前庭を持つアパート、樹木に囲まれたプロムナード、瀟洒《しようしや》な屋敷……。表通りから一歩入っただけで、パリの喧噪《けんそう》を忘れてしまえる地区なのだ。  女に指定された建物は、一軒家だった。石造りの門柱があり、その周りは、鉄柵《てつさく》で囲まれていた。門扉は開いていて、前庭に、車が数台停まっていたが、新坂は、車を中には入れなかった。  数十メートル離れたところに駐車し、辺りの気配を窺《うかが》ってから、徒歩で屋敷に向かった。  前庭に並んでいる七、八台の車はすべて高級車だった。大幹部の集会でもやっているのだろうか。  建物は三階建てで、一階と三階から明かりがもれていたが、二階はまっくらだった。左側に赤い瓦《かわら》屋根の二階建ての小さな建物があった。  階段を上がり、ベルを押す。  こめかみに白い物が混じった初老の紳士がドアを開けた。この館《やかた》の執事らしい。 「しばらく、お待ちいただきたい、とムッシュ・プレジャンが申しております」  名前を告げると、執事は機械的な口調で、そう言った。  玄関ホールには、オペラが流れ、二階から微《かす》かに人の声がした。  新坂はサロン風の広い部屋に通された。  天井の高い部屋には、ふたつのシャンデリアが皓々《こうこう》と輝き、暖炉の左右には、ブラケットが灯《とも》っていた。新坂はルイ十六世様式の椅子《いす》に座り、�ピガールのドン・ジュアン�が現れるのを待つ。出されたコニャックを二杯飲んだ。だが、�ピガールのドン・ジュアン�は姿を現さない。  何十年もの間、パリの暗黒街に君臨し続けているボス。故買屋のひとりぐらい、虫ケラのようにしか考えていないのだろう。だが、それにしてもおかしい。ブツを捌《さば》かせようという相手を、放《ほう》っておいて何をやっているのだろうか?  苛々《いらいら》して、窓際に立った。その時、突然、扉が開いた。 �ピガールのドン・ジュアン�が、タキシード姿で現れた。小柄なずんぐりとした男。髪は染めているのかもしれないが、黒光りがし、日焼けした浅黒い顔は生気に満ちていた。 「お待たせしたね」�ピガールのドン・ジュアン�は、肉付きのいい丸っこい手で、握手を求め「よく来てくれた」と言って、新坂の背中のあたりを、ポンポンと二度ばかり叩《たた》いた。  新坂は、自己紹介をした。 「話は書斎でしよう」そう言って�ピガールのドン・ジュアン�は先にサロンを出た。  玄関ホールに、赤のイブニングを着た中年の女が立っていた。 「どうだね、マダム。調子は?」 「今夜はさっぱりよ。今日は夫の命日だから、やはり駄目なのかもしれないわ、フェルナン」 「何番目の亭主の命日だったかね」 「まあ、ひどいことおっしゃって!」女は、そう言い、高らかに笑いながら立ち去った。 「君は賭事《かけごと》はやるかね?」ボスが訊《き》いた。 「いえ、俺は……」 「東洋人は皆、バクチ好きだと思っていたがね」 「例外もありますよ」 「わしの趣味は、オペラだということになっているが、実は、もうひとつある。それがギャンブルなんだ。ここは言わば、わしの趣味の家ということになるかな」 「ということは、趣味でここをカジノに?」 「金は出したが、ここを運営してるのは、わしじゃない。ここでは、わしも純然たる客だよ。ルーレット、ブラック・ジャック、バカラ、それに麻雀《マージヤン》もできる」 「麻雀まで?」 「驚いたかね。実は君を待たせたのは、麻雀のせいだったんだ。途中で抜けるわけにはいかなくてね。仕事の話を終えたら、お見せしよう、ここのカジノを」 「いえ……」 「遠慮はいらん。なんなら、一勝負してみるかね。うちのカジノは公明正大だよ」 �ピガールのドン・ジュアン�は廊下の端にある扉を開けた。そして、すぐに給仕を呼びつけ、酒の用意をさせた。  ドン・ペリニヨンをグラスについだ給仕が出て行くと、�ピガールのドン・ジュアン�は、グラスを翳《かざ》した。新坂も一口、飲んだ。 「君が、なぜ�彫像《スタチユ》�と呼ばれているのか、知ってるかね」 「さあ……日本人にしては体格がいいからじゃないですか」 「違う。君は、無口で、一度決めたらテコでも動かない。そこが彫像を連想させるそうだよ」 「誰がそんなことを言ったのですか?」 「君の仕事ぶりについては、一応、調べさせてもらった。わしの大事なブツを預ける相手だからね」 「それで、捌《さば》きたいものというのは?」 「そう急がなくてもいい。君は自分のことを話題にされるのが嫌いなのかね」  新坂は、黙ってうなずいた。 「マルセルが使いものにならなくなった今、君がパリで一番の故買屋だよ。だが、なぜ、君が仕事を選ばないのか不思議でしかたがない。センベーヌのようなケチな押し込みや、ジプシーたちを、どうして相手にしてるのか疑問なんだ。君は、アメリカ人にも香港《ホンコン》の連中にも、そして、むろんのこと、日本人にも強力なコネを持っている。大きな仕事だけをやっていれば、それで充分な実入りがあるはずだがね」 「来る者は拒まず、来ない者は追っかけない。これが俺のやり方です」 「安全なやり方だ。バクチをやっていても、その自然な心さえあれば、たいがいは負けない。だが、積極的に打って出る楽しみ、というのも人間にはあるんじゃないかね」 「ムッシュ・プレジャン……」 「フェルナンと呼んでかまわんよ。一緒に仕事する連中は家族と同じだ」  新坂はうなずいた。 「で、フェルナン、ブツは何ですか」 �ピガールのドン・ジュアン�は、葉巻を取り出し、新坂にも勧めた。だが、新坂は断った。  小作りのくしゃとした顔の�ピガールのドン・ジュアン�がくわえると、葉巻は一回り大きくなったように見えた。すこぶる不釣り合いなのだが、決して、葉巻に圧倒されている雰囲気はない。むしろ、太く長くなった葉巻から立ちのぼる煙の向こうで、瞳を隠すように目を細めて笑っている�ピガールのドン・ジュアン�には、そこしれぬ迫力が備わっていた。 �ピガールのドン・ジュアン�は、机の引き出しを開けた。 「捌いてもらいたいのは、これだよ」  取り出された物を、�ピガールのドン・ジュアン�は、鳩《はと》に餌《えさ》でもやるような手付きで、新坂の前に投げた。 「これは……カジノで使う賭《か》け札じゃありませんか」  カジノの名前の入った五百ドルの|賭け札《プラツク》。色はベージュ色。真中に薔薇《ばら》の花模様が、プラスチックの間にはめこまれていた。 「贋物《にせもの》ですか?」 「難しい質問だな。贋物と言えば贋物だし、本物と言えば本物だよ」 �ピガールのドン・ジュアン�は、含み笑いを浮かべて、引き出しからもう一枚、取り出した。  それは、まったく同じ賭け札だった。 「比べてみたまえ。寸分違わんことが分かるだろ」  新坂はふたつの賭け札を並べ、比べてみた。絵柄が同じなのは、むろんのこと、触り心地もまったく同じだった。 「確かに、同じように見えます。だが、俺は素人ですからね」 「ポワシーの外れに、カジノ用のチップと賭け札を作っている�ブラック・ドール�という会社がある。たった四十五人の従業員しかいない小さな会社だが、世界のカジノで使われている賭け札、チップの六十五パーセントは、そこで作られているんだ。芸術品だよ、君。普通のものは、単に色の違うアセチルセルローズを重ねて作られているんだが、この会社の製品は違う。磁石に反応する仕掛けをはじめとして、ラメの透かし細工をプラスチックの中に挿入したり……まあ、いろいろと凝ってるんだ。むろん、こんな面倒なことをするのは、芸術のためではない。贋物を作らせないためだがね」 「しかし、あなたは、それを誰かに偽造させ、贋物作りに成功した」 「まあ、そうだが……。その会社の製法とまったく同じ製法でできているんだから、単に贋物とは言えまい」�ピガールのドン・ジュアン�はそう言って、誇らしげに笑った。 「現在、ラスベガスで使えるものが、約百万ドル分、それから、フランスで使える分が、一千万フラン(約二億二千万円)分ある。それを、君に捌《さば》いてもらいたいんだ。マルセルが不治の病にかかった今、頼れるのは君だけだ。奴が病気になったのは、わしにとって幸運だったかも知れん。ここ数年、警察は、大量のブツを捌く故買屋を先に挙げて、そこから、糸を手繰ろうとしているんだ。昔は、逆だったんだがね。わしとマルセルの関係は、とっくに警察も気づいている。ところが、君とは、これまで一度も組んだことがない。これからのふたりの付き合いを考えれば、一発目の仕事は大きい方がいい。そう思わんかね?」  新坂は眉をひそめた。奴が、一体、どこからこんな物を手に入れたのか気になったのだ。 「出所を心配しているのかな」�ピガールのドン・ジュアン�は目を細めて笑った。 「ええ。出所のはっきりしないブツは扱いたくありません」 「まるで、正規の貴金属商みたいな口振りだな」 「少なくとも、どうやって手に入れたブツなのか、はっきりしないと、お預かりできません」 �ピガールのドン・ジュアン�が葉巻の灰を、静かに灰皿に落とした。もう笑みは消えていた。 「�彫像《スタチユ》�……。君には、捌ける自信があるのか」  新坂の脳裏に、大きな金を動かせる人間の顔が次々と浮かんだ。 「心当たりは、いくつかあります」 「君に任せる。あくまで、わしが関《かか》わっていることを気取られないようにやってくれたまえ」 「ちょっと待って下さい。私にだけは、出所を教えていただかないと」 「明日の六時、ここに来てくれ。話はその時にする。君は、つまらん心配などしないで、わしの言うことを聞いていればいい」 「しかし……」 「君は、わしの申し出を断る気かね。これまで、そんなことをした奴は、ひとりもおらんよ」 �ピガールのドン・ジュアン�は葉巻を消し、グラスをゆっくりと空けた。 「さて、わしは、遊戯場《カジノ》に戻るとするか。君も、ちょっと寄って見て行きたまえ」 「いえ、俺はこれで……」 「わしの招待だ。素直に受けたまえ。君に見せたいものがあるんだ」  新坂は仕方なく、�ピガールのドン・ジュアン�の後について、二階に上がった。  赤い絨毯《じゆうたん》の敷かれた廊下の両側に扉があり、正装した男女が出入りしていた。 �ピガールのドン・ジュアン�は、まず、新坂をルーレットの部屋に案内した。  二台のルーレット台の周りには、それぞれ、五、六人の男女がいて、球の行方をじっと見つめていた。 「賭事《かけごと》というのは、最高の環境でやらなくちゃいかん。シミったれたカジノ場で、目に隈《くま》を作ってやるようなバクチは、わしの性に合わんのだ。三階にはバー、それから、ちょっとした食堂も作らせた」  ルーレットの部屋を抜け、次の間に移った。  中世風の大きな壁画が飾ってある小暗い部屋だった。黒地にアラベスク模様の入った壁紙。分厚いカーテンが音のもれるのを防いでいた。  荘厳なオペラの流れる中で、女ひとりと三人の男が、中央に置かれた雀卓《ジヤンたく》を囲んでいた。  四人とも白人。新坂に背中を向けている男のことは分からないが、残りのふたりは、口髭《くちひげ》を生やし、タキシードを着ていた。  雀卓を見て、新坂は驚いた。台の縁や足が黄金色に輝いていた。どうやら、金で作った雀卓らしい。 「日本のメーカーに頼んで、特別に作らせた雀卓なんだ。日本のテレビ局が、そのことを嗅《か》ぎつけて取材させろ、と言ってきた。むろん断ったがね」�ピガールのドン・ジュアン�は、得意げな口調で言った。 「ルールは日本式ですか?」新坂が訊《き》いた。 「そうだ。以前、日本人の友人がいてね、その男から習い、わしは病みつきになった。わしの子供の頃《ころ》も、フランスで麻雀が流行《はや》ったことがあってな。貴族や金持がやっていた。わしの父親は、或《あ》る貴族の運転手をやっていたから、わしも何度かみる機会があったんだ」  運転手の息子《むすこ》が、今は、金で作った雀卓で麻雀をやっている。いかにも、そう言いたげな口調だった。 「今、麻雀をやっているのが、ここのマダムであるトラヴィアータだ」 「トラヴィアータ?」 「わしのつけた渾名《あだな》だよ。ここは、通称、トラヴィアータの館《やかた》というんだ」  トラヴィアータといえば、オペラ『椿姫』の原題≪ラ・トラヴイアータ≫から着想を得た渾名だろう。確か、その意味は�道をはずした女�だったはずだ。  肩を大胆に出した、萌黄《もえぎ》色のベア・バックドレスを着た女が、新坂を見て、軽く会釈をした。  澄んだブルーの目をした女で、ブルーネットの髪をルーズな感じにのばしている。歳は三十六、七というところだろうか。  ギャングのボスと関係のある女だから、渾名の通り、まっとうな道を踏みはずした女には違いないのだろうが、気品といってもさしつかえのない雰囲気が漂っている。これまでにも、何人もギャングの情婦を見てきたが、こんな女に会ったのは、これが初めてだった。ミンクのコートとダイヤで着飾った彼女を想像するのは簡単なことだが、それらの高価な品品を前にして、頬を緩ませたり、贈り主に甘いキッスをする彼女を想像することはできなかった。  美しい。新坂は、�ピガールのドン・ジュアン�の女だということも忘れて、見惚《みと》れてしまった。 「他のメンバーも紹介しておこう。右側に座ってるのが、ムッシュ・パストール……それから……」  新坂は、�ピガールのドン・ジュアン�の言ったことを聞いていなかった。  背中を向けていた男が、振り向いたのだ。  目が合った。新坂の心臓が高鳴った。相手は一瞬、視線を止めただけで、すぐに、雀卓の方に躰《からだ》を戻した。新坂は、トラヴィアータのことなど、一瞬にして忘れてしまった。  シランス。こんなところで、再会するなんて……。     3  新坂五郎が日本を発《た》ったのは、十九歳の時、ちょうど十五年前のことである。  国立パリ高等音楽院の入学試験に合格し、留学したのだ。  新坂の専門はフルートだった。ジャン・ピエール・ランパルに憧《あこが》れ、子供の頃から、フルート奏者になろうと決めていた。  東京の下町で鉄工所を経営していた父親は、フルートなど女のやる稽古事《けいこごと》だ、と真向から反対した。だが、新坂は、五人兄弟の末っ子ということもあって、結局、父親は息子の情熱に負け、プリマのフルートを買ってくれた。指導してくれたのは、かつて、N響のフルート奏者を目指したことのある、小学校の音楽教師だった。  新坂には才能があった。めきめき腕を上げ、軒並みコンクールに優勝した。  こうなると、音楽ってのは、やたらに金がかかるものなんだな、と愚痴《ぐち》りながらも、新坂の父親は息子を積極的に応援するようになった。音楽大学に進むには、単にフルートを習うだけではすまない。聴音、声楽なども、しかるべき大学を出た教師につき、みっちりと習った。  どうしてもパリの音楽学校に入りたかった新坂は、一年間、フランス語も習い、一九七四年パリにやって来たのだ。  みごと目的の学校に入れた新坂は、有頂天だった。それだけで、すでに一流の演奏家の道を約束されたかのような気にさえなった。  カルチエ・ラタンの屋根裏部屋を借り、有名なフルート奏者に個人レッスンを受けながら、学校に通った。  競争は考えていたよりも厳しかった。日本では群を抜いていた新坂の才能も、パリでは、それほど注目を浴びなかった。同級生の中には、彼よりも上手な奏者が何人もいたのだ。  練習に練習を重ねても成果は表れない。悩んだ。焦りと不安が彼の心の中に渦巻いた。二流のフルート奏者などになるのは嫌だった。頂点を極めなければ気がすまない。しかし、いくら努力しても、もうひとつ澄んだ音色は出なかった。  誰に相談しても埒《らち》のあくことではなかったし、気分転換も何の役にもたたなかった。この苛立《いらだ》ちを解消するためには、満足する音色を出すしかない。それは、充分に分かっていた。だが、次第に練習に熱が入らなくなった。  二十《はたち》になった春のこと。大学に行かずに、父親の鉄工所に勤めた長兄から突然、電話がかかって来た。父親の鉄工所が、設備投資に金をかけすぎ、不渡りを出した。もう学資は送れない。兄は、上擦った声でそう言った。  大金持の息子ではないが、これまで金の苦労をしたことのない二十の男の子は、途方にくれる前に、事実を実感としてとらえることができなかった。  個人レッスンは止める他ないが、学校は、アルバイトをすれば続けられる。自分が一流のフルート奏者になれば、親の借金などすぐに返せる。そんな甘い考えをいだいていたのだ。  日本語の新聞に、フルート教授の広告を打った。だが、生徒はひとりしか見つからなかった。  何とかその月謝をベースに生活を始めたが、とても、それだけでは食えない。旅行代理店に頼まれて客を送迎するのも、彼のバイトのひとつになった。  それでも、学校には通い続けた。だが、練習不足は、如実に現れた。  新坂は、無口でどちらかというと人づきあいのいい方ではない。だから、親しい友人がほとんどいなかった。  しかし、異郷の地で、ひとりで悩むには、二十という歳はいささか若すぎた。  いつの日からか、夜になると、心がざわめき、ネオンの光が夜空に溶けこんでいる繁華街に彷徨《さまよ》い出るようになった。だが、何をするというわけではなかった。カフェのテラスに座り、通行人を眺めたり、映画を見たりしているだけだった。  そんな或る夜、サンジェルマンとオデオンの間にあるカフェで、ビールを飲んでいた時のことである。顎鬚《あごひげ》をたくわえた人のよさそうな東洋人が、新坂に声をかけてきた。 「日本人ですか?」 「ええ」 「じゃ、麻雀できますね」 「ええ。少しだけ」  父親が好きだったので、家族全員が、麻雀を覚えさせられていたのである。 「メンバーがひとり足りなくなっちゃってね、どうです、一緒にやりませんか」 「雀牌《ジヤンパイ》はあるんですか」  男はにっと笑って、持っていた黒い鞄《かばん》を二、三度振った。  牌が触れ合う特殊な音が、新坂の耳に伝わった。 「僕は、落合《おちあい》と言います。すぐそこに友達が住んでいて、そこでやるんです。来て下さいよ」  いかにも優しげな物言いが怪しい。パリゴロに違いない。誘いに乗るのはよそう。新坂は丁寧に申し出を断った。しかし、落合はすんなりとは引かなかった。隣の椅子《いす》に腰かけ、 「心配いりませんよ。僕たちはただ麻雀がしたいだけなんです。レートは一点二十サンチーム。ハコテンでも、たった六フランしか負けない麻雀です」  ギャルソンが、落合に注文を取りにきた。だが、落合は流暢《りゆうちよう》なフランス語で、すぐに行くから、何もいらない、と言った。  ハコテンで約四百五十円しか負けない麻雀。新坂の心は動いた。 「そんなに長くはやりませんから」落合はたたみかけるように言って、微笑《ほほえ》んだ。  新坂は承諾し、落合の後についてサンジェルマンの路地に入った。  落合|圭一《けいいち》は、ヴァンセーヌにあるパリ大学、第八分校で、映画を勉強している学生だった。他のふたりは、語学学校アリアンス・フランセーズの生徒だと、自己紹介をした。  初めのうち、新坂は緊張した。見ず知らずの人間と、このように付き合うのは初めての経験だったのだ。しかし、次第に慣れてきた。彼等の素性ははっきりしないが、新坂をカモにしようという、パリゴロではないらしい。  その夜、新坂は二十フランばかり勝った。それがきっかけとなり、週に何回かは卓を囲むようになった。徹夜になることも、しばしばだった。遅ればせながら、酒と煙草を覚えたのも、麻雀をやりだしてからのことだった。  新坂の顔色は悪くなり、フルートの音色は、さらに落ちた。  孤独と対面するのが、前よりもいっそう怖くなった。悪循環。麻雀をやっていないと、躰《からだ》がふわりと浮くような感覚にとらわれ、居ても立ってもいられなくなった。  新坂は、六つ年上の落合と親しくなった。映画の話になると、熱弁を振るう彼だったが、いっこうに学校に行っている様子はなかった。毎日、何をして暮しているのか、どこから金をもらっているのか、まったく分からない男だったが、常に、丸い顔に、温厚な笑みをたやさない落合に、新坂は好感を持った。  麻雀をやりだして、半年ほどたった時、落合に誘われて、�ミュルチ・クラール�という博打《ばくち》に手を出した。  これは、ルーレットとビリヤードを一緒にしたようなゲームで、突かれた球が、一度、台の端でワン・クッションし、手前にあるルーレットのような盤の中に入り、その盤の上を転がるのである。ルーレットと違うのは数字を選ぶのではなく、色を選ぶところだ。赤、黄、緑、白の四種類の色に金を賭《か》ける。球の転がる溝には赤の三倍とか白の四倍とか書かれてあるが、倍率は指定できない。一か所だけ、エトワールと名付けられた星印の溝があり、そこに入ると二十四倍になる。  ルーレットと違うのは色に賭けることだけではなかった。球はルーレットのように溝にぴしゃりとは収まらないのだ。赤に入りそうに思えても、溝の縁に当たって、四つほど溝を転がり、そこに入るかと思うと、はたまた、ひとつ戻ってしまったりするのだ。まったく、胃が痛くなるような博打だった。  日本人の間では、このゲームは�コロコロ�とか�ゴロゴロ�とか呼ばれているのだ、と落合が教えてくれた。  五フラン、十フランと細かく賭けた。緑と白に張り続けた。その夜は、ツイていた。緑と白がよく出た。八百フランばかり勝った。落合は、赤と黄色ばかりを狙《ねら》っていたので、結局、五百フランほど負けた。  最低賭け金は五フランだし、四つの色を選ぶだけなら、大して難しくはない。  味をしめた新坂は、翌日もその遊戯場《カジノ》に出掛けた。緑と白に張り続けた。しかし、四回連続で赤が出た。  迷いが生じた。黄色と赤に乗り換えた。とたんに白が出た……。  勘が狂い、後手後手に回る勝負となり、あっと言う間に、昨晩の勝ちがふっ飛んだ。しかし、まだ心には余裕があった。五百フランをチップに替え、二百フランくらい勝ったら帰ろう、と心に決めた。しかし、五百フランは三十分もたたないうちになくなってしまった。  その夜、さすがに暗い気持ちになり、もう二度と賭事《かけごと》には手を出すな、と自分に言い聞かせた。だが、翌日の夜には、自然に遊戯場に足が向いていた。  新坂は賭事にとりつかれた。今日こそは、と�光�を求めて博打場に出掛けて行くようになったのである。  次第に、一回に張る金額が大きくなった。赤と決めたら、ずっと赤に張り続け、二十四倍の�エトワール�には常に五フランのチップを張った。勝ち負けの波は激しかった。一喜一憂の波に酔いしれ、さらに深みへとはまって行った。  フルートの教授で得た金を、一晩で使ってしまったこともあった。学校から足が遠のき、博打場に通うために、バイトに精を出すようになった。  金がなくなると、麻雀で稼いだ。落合が自分にしたように、新坂は、カフェや日本人バーでメンバーを集めては卓を囲んだ。画家、学生、カメラマン、商社マン。相手は誰でもよかった。中には日本大使館に勤めた経験のある男もいた。彼からは�自民党�ルールか�社会党�ルールのどちらかでやろうと言われた。代議士がパリを訪れた時、党によって麻雀のやりかたが違うのだそうだ。当然、�自民党�ルールの方が、博打性が強く�社会党�ルールの方がシケていた。シケた麻雀では金にならない。当然、新坂は�自民党�ルールを選んだ。  麻雀で勝った金のほとんどは�コロコロ�に費やされた。  赤、白、黄、緑……。その四つの色に、新坂のパリ生活は賭けられた。  その頃、落合はパリを離れて、ボルドーに移ることになった。フランソワーズ・レヴィーという、ボルドー出身のユダヤ系の女と結婚し、向こうに住むことになったのである。 「……映画の勉強はどうするんだい、圭さん?」と新坂が訊《き》いた。 「そのうちに、映画評論でも書くさ」落合は淡々と答え、穏やかに微笑《ほほえ》んだ。  落合は、何事に関しても、のめり込むことのない男なのだ。賭事が大好きで、�コロコロ屋�以外にも、ドーヴィルやアンギャンのカジノに新坂と一緒に通ったが、決して、新坂のように熱くなることはなく、少し負けると、さっと勝負から手を引いた。  新坂は、三千フランばかり落合に借金があった。彼がパリを離れるとなれば、借金は返してやらなければならない。だが、新坂は、そんな金を持っていなかった。 「あのう、借金のことだけど……」新坂はおずおずと切り出した。 「金ができたら、送ってくれ。俺は向こうで就職口が決まってるんだ」 「就職口って?」 「フランソワーズの友達が運送会社をやっているんだ。そこで、長距離トラックの運ちゃんをやるんだよ」 「大型免許なんか持っていたっけ?」 「持ってなきゃ雇ってもらえないよ」 「すまない、圭さん……」新坂は目を伏せた。 「お前、少し熱くなりすぎるんじゃないか。こんな生活をしていたら、破滅するぜ」 「ケリをつけなきゃね」新坂は、窶《やつ》れた顔を上げ、独言めいた口調で言った。 「だがな、新坂。俺はお前の性格が羨《うらや》ましいと思ってるんだ」 「なぜ?」 「お前が、目の色を変えて、チップを置く姿には迫力がある。賭事ってのは、実際、よく人を表すよ」 「変なことに感心するんだね」  落合は、黙って、また穏やかに微笑んだ。     *  友人がパリを去ると、新坂は、前にもまして博打場通いが激しくなった。  真剣に入れこめば入れこむほど、運命の女神が微笑んでくれることは多くなった。しかし、それ以上に、つきに見放された時の痛手も大きかった。  賭事は、必ず最後は負ける。分かっていた。だが、もう止めることはできなかった。  借金だらけの生活。学年末試験に落ち、そのまま学校には行かなくなった。  オケラになって、ゴロワーズを吸いながら、歩いて家まで戻る時、街の底を這《は》っているような気分に襲われた。そして、その気分は、不思議と悪いものではなかった。フルートを吹いている時よりも、生きている感じがしたのだ。  しかし、借金は積もるばかりで、にっちもさっちも行かなくなった。兄に手紙を出し、金の無心をした。だが、けんもほろろに断られた。  年貢の納め時。新坂は七六年の夏に、帰国することに決めた。飛行機代と借金は、家族が何とか工面してくれることになった。胸が痛んだ。自分のこの一年あまりの生活は、正気の沙汰《さた》ではなかった。  しかし、現金が着いたという知らせが銀行から来ると、博打場に足が向きそうになった。何とか堪《こら》え、そのままシャンゼリゼにある飛行機会社の窓口に向かった。  カフェ・フーケの前を通った時、テラスから声をかけられた。久しく会わなかった落合が、新坂を見て微笑んでいた。  きちんと、スリー・ピースを着、髭《ひげ》も剃《そ》り、別人のように小奇麗になっていた。 「向こうでの生活、うまく行っているようですね」新坂が微笑んだ。 「まあな。何の刺激もない暮らしだが、満足してるよ。で、お前はどうしてる? 金を送ってきたきり、何の連絡もないし、前の住所を訪ねたが、家賃未払いで逃げ出したっていう話だったし……」 「日本に戻ることにしました。学校も止めちまったし、まあ、向こうに帰ったら働くしかない」 「バクチから足を洗ったのか」 「ああ。しばらくは止めることにした」 「そうか、それはよかった。だが、少し残念な気がするな。お前みたいなギャンブラーを見る機会がなくなるのは」 「何が、ギャンブラーですか。借金ばかり作ってる奴は、ギャンブラーなんかじゃないよ……。ところで、これから、予定があるんですか。よかったら、一緒に飯でも……」新坂が誘った。 「いや、その……」落合は口ごもった。「俺はこれから、カジノに行くところなんだ。ボルドーの知り合いに紹介されたんだが、モンパルナスの裏に、モグリの博打場があるんだそうだ。そこに顔を出してみようかと思ってる」 「そうか、それは残念だな」  そう言った新坂だったが、上の空だった。心の中で激しい葛藤《かつとう》が起こっていたのだ。 「それじゃ、また、落ち着いたら手紙でもくれよ」  落合は、テーブルに勘定を置くと立ち上がった。新坂は、酒を前にしたアル中のように、掌《てのひら》を口で拭《ぬぐ》った。 「俺も連れてってくれないかな」 「止めておけ。日本に帰れなくなるぞ」 「帰国の土産《みやげ》話にモグリのカジノを見物したい」  落合は、仕方のない奴だ、という顔をして、うなずいた。  落合に連れて行かれた時は、必ず、新坂は勝った。ジンクスは生きているはずだ。一度だけなら……。  秘密のカジノは、モンパルナス墓地の脇《わき》にあった。落合は、マネージャーをやっているスペイン人らしい男に、紹介状のようなものを渡した。ふたりは、すんなり中に入れた。  七階建ての古いマンションの六階と七階をぶち抜いた、結構豪華なカジノだった。ルーレット、ブラック・ジャック、バカラが室内では行われていた。  客層はまちまちで、学校の先生風の人間から見るからにヤクザ風の男までがいた。  落合はバカラのテーブルについた。  バカラは、細かい規則を除けば、�オイチョカブ�に似ているゲームだ。つまり、カードの数字を足した、下一|桁《けた》が、9であれば、最高に強いのだ。エース札は1点、10と絵札は0点である。  まず、二枚のカードをもらい、点数が8か9なら、すぐに開く。これを�ナチュラル|8《エイト》�、�ナチュラル|9《ナイン》�という。  二枚のカードの点数が、0から4の場合は、もう一枚、カードを要求できるが、6と7の場合はカードを引けない。そして、5の場合は、プレーヤーの選択に任されている。  このカジノでは、いわゆる鉄道ゲームをバカラと呼んでいた。このバカラの特徴は、カジノと客が勝負をするのではなく、カジノはあくまでテラ銭を稼いでいるだけで、客同士が親と子に分かれて競うところである。  親に対して、客のうちのひとりだけが勝負をし、他の客はその間、観戦しているだけというのが基本的な戦い方なのだが、賭け金が大きくなり、ひとりで受けられない場合は相乗りが許される。しかし、その場合も、親と勝負するのは賭けた客のうちひとりだけで、相乗り客は、運命をそのひとりの人物に託す形となる。親が勝てば勝った金はそのまま次の勝負の賭け金となる。親が下りないかぎり、賭け金は倍倍になって行くのだ。他にも細かな規則はあるが、おおまかに言えば、以上のようなゲームである。  初めのうち、落合も新坂も、テーブルの後ろに立って、相乗りの形で金を賭けた。その夜はどうしたわけか、親になった人間が負けてばかりいて、新坂は労せずして、三千フランばかり勝った。  その金を使って、しばらくルーレットに興じたが、あっさりと稼いだ金を吐き出す結果となった。ふたりは、再び、バカラのテーブルに戻った。ちょうどふたりの客が席を立ったところだった。  親はイヴ・モンタンをどうかしたような面長の男で、目の動きがいかにも、博打うちのように見えた。  千フランの勝負を落合がひとりで受けた。  親が、六組のカードが入っているシューというプラスチックのケースからカードを出した。子の二枚のカードを、カード係が、柄の先が平たくなった木製の道具ですくい、落合の前に運んだ。  落合は慎重にカードを開き盗み見るように見た。スペードの5にクラブのエース。  落合は、いらないと言った。  親は三枚目のカードを要求した。カード係が、親の前にカードを運び、開いた。ハートの4。おもむろに伏せられていたカードを親が開いた。クラブの3にクラブのA。点数は8。親があっさりと勝った。  新坂はもう我慢できなくなった。次の二千フランの勝負を彼はひとりで受けた。飛行機代として送られてきた金に手をつけたのだ。  二枚の伏せられたカードを取り、擦り合わせるようにしてずらし、ちらっと手札を覗《のぞ》いた。クラブのキングにクラブの9。つまり、ナチュラル9だ。新坂は、静かにカードを開いた。親は、スペードのクイーンに、ハートの8。新坂の勝ちだった。  次に新坂が親となった。賭け金は四千フラン。子に回った先程の親が、新坂に挑んできた。  その勝負でも、あっさりとナチュラル8で新坂が勝った……。  その夜、新坂は親に回ったり子に戻ったりして、結局、四万八千フラン勝った。 「やはり、バクチは止められないようだな、新坂」帰りの車の中で、落合が皮肉めいた笑いを浮かべて言った。 「圭さんと一緒だと、必ず俺は勝つ。ただし、一度だけだけどね」 「あのカジノには、自由に出入りしていいぜ。もし、これからもやる気があればの話だがな」  新坂の帰国の意志はふっ飛んでしまった。次の日から、毎晩、モンパルナス墓地の見えるモグリのカジノへ通った。  勝ちまくった。二十そこそこの若造は、常連客たちをカモにした。  帰国することも忘れて、勝負に熱中していた新坂の前に、或る時、正装した三十くらいの男が現れた。耳が隠れる程度の長髪。鼻と口は小さい。くっきりとした二重瞼《ふたえまぶた》。緑がかった大きな目が、まるで瞬《まばた》きを忘れたかのように、新坂を見つめていた。  その時の賭《か》け金は四千フランだった。他の客は、新坂のツキを恐れて、誰も受けなかったが、その男は、小さな声で「やろう」と言った。そして、タキシードのポケットから札束を取り出した。  男はいきなり、ナチュラル9を引き、勝った。瞬きをしない幽霊のような男は、親になっても、勝ち続けた。新坂がナチュラル9の時は、必ず男も9を引いているのだ。  新坂は、急にツキがなくなった原因が分からなかった。それまでの自信に満ちた表情は消え、目が血走ってきた。  結局、その日持っていた四万八千フランを、新坂はすべて負けた。  翌日、これまで勝った金を、すべて持って再び、そのカジノに出掛けた。男はいなかった。  他の相手とやると、不思議に勝った。昨晩の負けを取り戻すのには、さほど時間がかからなかった。  太った紳士をスッテンテンにし、煙草に火をつけた時、例の男が新坂の前に現れた。 「あんたを待っていた」新坂は勝っている余裕から、横柄な口調でそう言った。  再び、サシの勝負となった。  賭け金は八千フランから始まった。  新坂は男をじっと見つめたまま、シューからカードを引いた。  男は二枚のカードをちらっと見、黙って首を横に振った。新坂は自分のカードを見た。  ダイヤの5にクラブのジャック。相手のカードは5か6か7なのだ。もう一枚、引く以外にはない。3か4の何《いず》れかを引けば必ず勝てる。  新坂は指さきに、魂をこめて引いた。  スペードの5。  カード係は「親は零《ゼロ》」と言ったが、新坂はぼーっとして聞こえなかった。  相手は5だった。もし、新坂が引かなければ引き分けだったのだ。  悔しかった。だが、そのことをいつまでも引きずっていると、ツキに見放される。  子に戻った新坂は、親になった男に挑戦した。賭け金は一万六千フランである。  男からカードをもらうと、新坂の鼓動は激しく打った。掌がじんわりと汗ばんでいる。 �ナチュラル9、ナチュラル9�。新坂は心の中で叫び続けた。  カードをちらっと見、ゆっくりと開いた。ギャラリーから一瞬、溜息《ためいき》が漏れた。  スペードのクイーンにハートの9。新坂は、ナチュラル9を出したのだ。  これで乗れるはずだ。新坂は、自信に満ちた目を相手に向けた。  男は、新坂から目を離さずに、カードを開いた。  ナチュラル9。新坂は唖然として男を見つめた。  男の顔には、勝ち誇った表情も、安堵の色も浮かんでいなかった。  男の迫力に圧倒されたのか、ギャラリーは水を打ったように静かだった。再びカードが配られた。  そのゲームで、新坂はあっさりと負けた。勝負は前のゲームの引き分けで決まっていたのである。  奴は何故、こんなに強いのだ。昨晩から、引き分けはあるものの、一度も負けないなんて、どうなっているんだ。  賭け金は三万二千になっていた。しかし、もう誰も受ける者はいなかった。男は、賭け金を五千に落とした。アラブ人風の男がそれを受けた。  このままでは引き下がれない。新坂はスペイン人のマネージャー、パコに借金を申し込んだ。パコは、顔を歪《ゆが》めて笑い、新坂を、バー・カウンターまで連れて行った。 「酒でも飲んで頭を冷やせ」 「奴と一発勝負をしたいんだ」 「私の一存では借金は受けられない」 「じゃ、OKを出せる人間に訊《き》いてくれ。あいつが、ずっと勝てるなんてことはありえないだろう」 「いくら貸して欲しい」 「七万フラン」  七万という金額を言ったのにはまったく理由はなかった。動転していた新坂は、無意識にそう言っただけだった。  パコは煙草《タバコ》を取り出し、火をつけた。そして、小馬鹿にしたように笑った。 「うちは、テラ銭が入れば誰が勝っても負けても関係ないが、奴との勝負は止めろ。ここで、奴は一度も負けたことはないんだから」 「いいから、パトロンに訊いてみてくれよ」  パコはうなずき、バーを出て行った。  新坂は、煙草をくわえ、使い捨てライターを取り出した。なかなか火がつかない。新坂は、苛々して、眉をひそめた。  何とか火がついた時、パコが戻ってきた。 「パトロンは承知した」 「本当か!」新坂の顔がぱっと明るくなった。 「ああ。あんたは日本人だ。日本人は、借金でトラブルを起こさないって、パトロンは信じてるんだ。それに、紹介状を出したボルドーに住む客とパトロンは仲がいいんだ」 「紹介状?」 「ここに初めて来た時、あんたの友達が、私に見せたろ」  新坂は、曖昧《あいまい》な笑みを見せてうなずいた。余計なことは言わない方がいい。せっかく金を貸してくれると言っているのだから。  パコは手に持っていた包みをカウンターに置いた。 「大事に使えよ。これ以上は、ビタ一文貸さないからな」 「借用書はいらないのか?」  パコはにやっと笑って、首を横に振った。 「返してもらうべきものは、必ず返してもらうよ」  遊戯室に戻った。瞬《まばた》きを忘れた男は勝負の最中だった。相手はアラブ人。  男が、アラブ人を負かすまで、新坂は遠くから黙って、男の様子をうかがっていた。  男は、まったく賭事に興奮している雰囲気はなかった。まるで機械のようにカードを引き、そして勝った。  アラブ人が負けた時、サシの勝負を申し出た。他の客に異存はなかった。  賭け金は四万フランだった。新坂は、それに三万載せた。男は、むろん、受けた。  ギャラリーが、ふたりの勝負を見ようと集まってきた。カード係がカードを切り、シューに収めた。  男がカードをシューから抜いた。カード係が、手際よく、新坂のカードを彼の前に置いた。  新坂は伏せられた二枚のカードを穴の開くほど見つめた。 �ナチュラル9、ナチュラル9�心の中で彼はそう叫んだ。  カードを見る。クラブの2、そしてもう一枚がスペードの6。新坂は小気味よくカードを表にした。  ナチュラル8。  新坂の口許に一瞬、笑みが浮かんだ。ほぼ勝利を手にしたようなものだ。  瞬きをしない男は、カードに目をやらず、一枚ずつめくった。  ハートのクイーン。つまり点数は零である。9を引かなければ、男の負けだ。  男は、力のない手つきでもう一枚のカードをめくった。  ギャラリーから溜息《ためいき》がもれた。新坂の額から、どっと汗が流れた。新坂の大きく開かれた目は、男の開いたハートの9を見た瞬間から、もう何も見えなくなってしまった。新坂の前のカードがかき集められ、使われたカードを落とす穴に力なく落ちて行った。  たった数十秒の間に、新坂は七万フラン、負けたのだ。  新坂は席を立ち、夢遊病者のような足取りでバーに戻った。コニャックを呷《あお》った。  頭の中は真っ白で、心臓の音だけが、爆発するかのように激しく打っていた。  気がつくと、瞬きをしない男が新坂の横に立っていた。  男の顔を見ると、正気に戻った。金を巻き上げられたうえに、惨めな姿を見せるのは、プライドが許さない。新坂は精一杯、笑顔を作った。 「俺はニイザカって言うんだが、あんたは?」新坂は、男に声をかけた。 「シランス(沈黙)」男は、正面を向いたままぽつりと言った。 「あんたにお似合いの渾名《あだな》だな」 「君は、運の弱い男ではない。だが、ギャンブルには向かない人間だ」 「なぜ、そんなことが言える」新坂は低くうめいた。  男は黙って、グラスを空けた。 「答えろよ。確かにあんたは強いが、負けることだってあるだろう」 「君には人生がありすぎる。だから、私には勝てない」 「人生? それは……」新坂が、そこまで言った時、後ろで彼の名前を呼ぶ声がした。  振り向くと、パコが立っていて、目でこちらに来るように合図を送った。     4  トラヴィアータが抜けて、代わりに�ピガールのドン・ジュアン�が入った。  黄金の麻雀卓に向かっているシランスには気品があった。牌《パイ》を持ってくる手つき、牌を捨てる仕種《しぐさ》……。その一挙手一投足は、まるで、全自動麻雀卓の一部に組み込まれているかのように正確な動きをした。  あれから、もう十年以上……。新坂は、まじまじと、シランスの横顔を見た。  とっくに四十はすぎているはずなのに、シランスには、まったく年老いた様子はなかった。顔の皮膚は、精巧に作られたマスクのように張っていた。  シランスの左側に座っていた若ハゲの紳士がリーチをかけた。シランスは、五筒《ウーピン》をツモった。新坂は若ハゲの捨て牌をちらっと見た。比較的通りそうな牌。だが、シランスは、五筒を捨てずに、面子《メンツ》を崩してまで、三索《サンソウ》を捨てた。三索は決して安全牌ではない。不思議な麻雀である。新坂は、若ハゲの待ちに興味を持った。二巡した。�ピガールのドン・ジュアン�が五筒を打った。 「ロン」若ハゲが、フランス語風の発音で言った。  シランスには当たり牌が分かる。いや、そんなことはありえない。勘が働いた? そうとしか考えられないが、それにしても、すごい。  どこかに姿を消していたトラヴィアータが麻雀室に戻ってきた。 「トラヴィアータ、ムッシュ・ニイザカのお相手をして」�ピガールのドン・ジュアン�が、牌をツモりながら言った。 「さあ、こちらへ」  新坂はトラヴィアータの後ろについて三階にあるバーに行った。窓際に、革張りの肘掛《ひじか》け椅子《いす》が並び、奥がカウンターになっていた。部屋の中央に、肘掛けが象の牙《きば》で出来た椅子が二脚おいてあった。  新坂は、アルマニャックを注文した。トラヴィアータも同じものを頼んだ。 「ムッシュ・ニイザカは、まったく賭事《かけごと》をなさらないの?」トラヴィアータが訊《き》いた。 「以前は、少しやりましたが、今はまったくやりません」 「手ひどい目に遭《あ》った?」潤んだ瞳がきらっと光った。 「賭事に向かない人間。昔、或る人にそう言われましてね」 「私の性格も賭事に向いていない、と思うけれど、でも止める気はないわ」 「ここのカジノは毎日、開いているんですか?」 「ええ。夜七時から十一時まで」 「息抜きは、深夜からってわけですか」 「私、滅多に出掛けませんの。フェルナンのお供で、どこかに行く以外はね」 「あなたが、借金を作ったら、�ピガールのドン・ジュアン�が肩代わりしてくれる?」新坂は皮肉めいた笑いを口許《くちもと》に浮かべた。 「いいえ。私は、ここの上がりで生活しているのよ。私が負けたら、私が払います。ここを維持できないくらいに負けたら、誰かにここを譲らなければならない。フェルナンは、優しい人だけれど甘チャンじゃないわ」  トラヴィアータは挑戦的な目で新坂を見、それから、短く笑った。  吸い込まれそうな魅力的な笑みだが、心から笑っているようには思えなかった。しかし、単なる冷たい笑みというのでもない。家具などが、まだ置かれていない新築のマンションの部屋のような、清々しくもあり、また殺風景な感じのする笑みだった。  これまで、新坂は女に心を奪われたことは、一度もなかった。淡い恋愛を十代に経験したことはあるが、暗黒街で生きるようになってからの彼は、固く心を閉ざした生活を送ってきたのだ。女との関係は、単にセックスだけ。心を売らない売春婦が、その意味で、新坂に一番適した女だった。  ところが、トラヴィアータを見ているだけで、新坂の心は揺れ動いた。錆《さび》ついた閂《かんぬき》が軋《きし》み音をたてるように、彼の中で大きな変化が起こっていた。  新坂は、グラスを空け、お替わりを頼んだ。 「この館は、いつごろからあるんですか?」 「フェルナンがこの建物を買って、カジノにしたのは二年ほど前ですわ」 「シランスって男は、勝負師のようですね」 「あなたが、賭事に向いてない人間だなんて、誰が言ったのかしら? 短い時間で、それを見抜けるだけでも、相当の才能がおありな証拠だわ」 「彼は、ここの常連なんですか?」 「一年ほど前に、或る実業家の紹介でやってきたのよ。あなたの言う通り、彼は勝負師よ。冷静で、しかも、驚くほど大胆。私、彼が負けたところを見たことないわ」 「賭事で食っているプロじゃないんですか」 「素性は知りません。でも、あなたの言う通り、賭博師《とばくし》だと思うわ。バカラで十万フラン以下の勝負はやらない素人なんていませんからね」 「シランスは……」 「あなたは、相当、彼のことが気になるのね」トラヴィアータが短く笑った。 「あんなに強い秘密を知りたい、と思ったんですよ」 「それは、私もおおいに興味があるけど、分からない。私たちには理解できない特殊な能力を神から授けられた、としか思えないわ」  バーには、モーツァルトの『フィガロの結婚』が流れていた。新坂は、アルマニャックをなめた。  戸口に男のシルエットが現れた。ゲームを止めたシランスが入ってきたのだ。 「シランス、今夜はもう、お終《しま》い?」トラヴィアータが訊《き》いた。 「ええ」澄んだ声が答えた。「フェルナンがあなたを呼んでいます」 「あ、そう。あなたがいなければ、私のひとり勝ちね」 「グッド・ラック」シランスが言った。  トラヴィアータは、優雅な足取りでバーを出て行った。給仕が、注文を取りにきた。シランスは、コニャックを頼み、新坂の正面に腰を下ろした。そして、窓の方に目をやった。ガラス窓にシランスの顔が淡く浮かんでいた。 「俺はあんたとサシで勝負をしたことがあった。あんたは、覚えていないでしょうがね」 「君は賭事に向かない人間。人生がありすぎる。私は、君にそう言った」ガラスに映った、瞬《まばた》きを忘れた目がちらっと新坂を見た。 「覚えていたんですか、光栄ですね」新坂はグラスをかざした。 「懲りずにバクチをやっているようですね」今度は、シランスがグラスをかざした。 「ここに来たのは、�ピガールのドン・ジュアン�に呼ばれたからですよ」 「君は、フェルナンの配下の人間なのか」シランスが抑揚のない声で言った。 「いや、そうじゃないが……」  新坂は皮肉な笑みを浮かべて押し黙った……。  パコから借りた金を返せない新坂は、安い航空券を買って、日本に逃げ帰ろうとした。だが、相手はギャング。甘くはなかった。パコたちに捕まった新坂は、金の返せる当てを追及されたが、実家も借金を抱えているし、まったくお手上げだった。紹介状を出したボルドーの人間は、当然、落合のことは保証するが、新坂など知らないと言ってきた。  死んだ方がマシだと思うほど、痛めつけられた挙げ句、ヤクの運び屋をやるように命令された。パコたちは、マルセイユに本拠地がある新興ギャングだった。奴等の怖さを知った新坂は、奴等の言いなりになって、安い金でスペイン、モロッコ、マイアミと回って、ヤクを運んだ。その間、盗品故買の仕事もやるようになったのだ。旅から旅への生活は、八二年、その新興組織が、他の組織との闘いに敗れ、壊滅するまで続いた。  組織から解放された新坂は、その六年間に知り合った人脈を頼って、故買屋の仕事を始めたのだ……。  この男との勝負に負けたのが、この道に入った直接の原因だった。その男に、フェルナンの配下か、と訊かれたから、つい笑ってしまったのだ。  だが、まったくシランスには恨みは持っていない。むしろ、再会できて嬉《うれ》しかった。 「もう賭事《かけごと》は止めたのか?」シラスは訊いた。 「あれ以来、一度もやっていない」 「今の君は、十年前の君じゃない。あの時よりも、数段、賭事に向いている」 「この十年間で、俺が人生を失った。そう言いたいんですか」  シランスは答えずグラスを空けると、静かに立ち上がった。新坂も腰を上げた。  シランスは館を出た。新坂も、その後を追った。  ふたりは、しばし口を利かなかった。 「車じゃないのなら、送りますよ」門を出たところで新坂が言った。  シランスは黙ってうなずいた。 「住まいは?」 「ブルトイユ大通り」  街路灯の青白い光の中で、樹木が揺れていた。  シランスを乗せたアウディは、シャルル・ドゴール大通りに出た。新坂は背中に感じるものがあった。尾行されている。  ランド・ローバーのような車が、かなり距離をおいてだが、アウディの後をつけて来た。 「つけられてるようだ、俺達は」新坂がぼそりと言った。 「そうらしいね」シランスが答えた。「だが、どちらをつけているのかな」 「あんたも、つけられるようなことをしてるのか?」 「賭博師《とばくし》だからね、私は」  新坂は車のスピードを上げた。正面に凱旋門《がいせんもん》が光っている。ランド・ローバーもスピードを上げた。ポルト・マイヨの広場から環状線に入った。前を走っていたフォード・エスコートに接近し、思いきりハンドルを左に切り、ホンダ・プレリュードの前に割りこんだ。ホンダがクラクションをならした。ちょうどトンネルの中。音が激しく反響した。追い越し車線を突っ走る。ランド・ローバーは、車を数台抜いて追いかけてきた。ポルト・ドーフィーヌを過ぎ、ポルト・ド・ミュエットも通過した。右側はブローニュの森だ。  新坂は中央車線に車を移動させ、トラックの前に出た。ランド・ローバーも車線変更し、トラックの後ろについた。トラックがローバーの視界を遮っているはずだ。右の車線にはミニとアウトビアンキがつらなって走っている。  パッシーの出口まで、そのままの態勢で走った。次第に出口が近づいてきた。新坂は、後ろを振り返りながら、タイミングを計った。  今だ。新坂は思い切り、ハンドルを右に切った。タイヤが鳴った。アウディは環状線を横切る格好で、出口に突っ込んだ。ミニが慌ててハンドルを切ったらしく、ガードレールに接触した。  新坂は必死でハンドルを左に切った。間一髪、アウディは出口のガードレールを微かにかすったが、ぶつかりはしなかった。 「振り切ったようだ」後ろを見ていたシランスが落ち着いた口調で言った。  新坂のアウディはブローニュの森の中に、いったん入り、それからポルト・ドートイユから、普通の道を使ってシランスの住まいに向かった。 「シランス、どっかで一杯やらないか?」 「いや……」そこまで言ってシランスは口をつぐんだ。そして、改めて「飲むなら、私のアパートで一杯やろう」と誘った。  新坂に異存はない。  ブルトイユ大通りは、ナポレオンの墓のあるアンヴァリッド記念館とモンパルナスのちょうど中間にある静かな通りだ。  シランスの住まいは中庭をつっきった奥の建物の中にあった。  先に新坂が中に入った。足が何かを踏んだ。それは黒い封筒で、真中に�トリプルM�と書かれてあった。  それをシランスに渡すと、彼は、表情ひとつ変えずに中味を読み、手紙を上着のポケットに突っ込んだ。  シランスは、靴をテーブルの上に放り出すと、キッチンに消えた。  きちんと整理の行き届いた居間だった。塵《ちり》ひとつ落ちていないようだ。男がひとりで住んでいる部屋の雰囲気ではなかったが、女が出入りしている痕跡《こんせき》もまったく見あたらない。  シランスはヘネシーの瓶とグラスを持って、居間に戻ってきた。 「あのランド・ローバーはどちらの後をつけていたのかな」新坂が、一口酒を飲んでから訊《き》いた。  シランスは肩をすくめただけで、何とも答えなかった。 「君が、フェルナンと付き合うようになったのは、私との賭《か》けに負けて借金ができたからか?」  新坂は一瞬黙った。そして、言った。 「まあ、間接的にはそうだな。あの借金が、俺をこの道に引きずりこんだ。だが、あんたのことは何とも、思っちゃいませんよ。むしろ、再会できてよかったと思ってるくらいだ」 「もう一度、私と勝負したいか」 「まさか。あんたは強すぎる。俺が太刀打《たちう》ちできる相手ではない。だが、俺は、この十数年間、時々、あんたのことを思い出した。あの強さの秘密は何だったんだろうとね。特に、右か左か、とっさの判断で動かなければならなかった時、あんたのような鋭い勘が欲しいと思った」 「君は逮捕されたことはないのか?」 「ない。これまでは何とか切り抜けてきた」 「君は運が強い。以前にもそう言ったはずだが」 「だが、あんたには、一度も勝てなかった」  新坂は、そう言って笑ったが、シランスは無表情のまま、酒を飲んでいた。 「ところで、トラヴィアータの館だが、あそこに集まる連中は、どんな奴なんだい」 「いろいろだ。賭事好きの不動産屋、暇を持て余した元ギャングの妻、それからトラヴィアータの魅力に引かれてやって来る資産家の老人……いろいろだよ」 「警備は大丈夫なのかな」 「カジノの開かれている間は、監視装置が働いているから、おいそれとは襲えない。そして、夜は、あの館には一銭も金は置いていない、とフェルナンが言っていたよ。執事と他の従業員が金を、どこかに持って行ってしまうらしい」 「じゃ、夜、トラヴィアータは、あの屋敷にひとりなのか?」 「そうらしい」 「彼女、いくつぐらいなのかな……」 「三十七と聞いている」  やはり、新坂よりは年上だった。 「君は彼女に興味を持ったようだね」 「いや、そういう訳じゃないが」 「彼女はフェルナンの女だ。手を出さない方が賢明だ」 「俺は、運が強い。そうじゃないのかい?」 「女は、運を狂わせる未知数だよ」  そう言いながら、シランスはテーブルにグラスを置いた。 「あんたは、ずっとパリにいたのかい?」 「いや、いろんなところを回ったよ」 「世界中のカジノに出入りしてるってわけか」 「まあ、そうだ。ところで、君に、お願いがあるのだが……」 「何だい?」  シランスは、上着のポケットから、封筒を取り出した。 「エドガー・キネ大通りにオークレール葬儀社というのがあるのだが、そこへ行って、サミエル・オークレールという人物に会い、この封筒を渡してもらいたいんだ」 「分かった。明日、寄ってみるよ」 「いや、今からすぐに行ってもらいたい」 「今って……。店は閉まっているだろう?」 「人は、時を選んで死にはしない。葬儀屋は二十四時間営業だよ」  シランスは、すっとほぼ垂直に立ち上がった。そして、居間の出入口の横にある電話に向かった。 「私だ……。代わりの人間が行く……じゃ、そうしよう」  受話器を置いたシランスは、そのまま戸口に立っていた。すぐに行け、という意味らしい。 「あんたは、一体……」 「君に迷惑はかけない。ただ、シランスの使いの者とだけ言って、これを渡してくれ。番地は十六番だ。戸口で渡すだけでいい。頼んだよ。言うまでもないことだが、このことは他言しないで欲しい」  新坂は、封筒を受け取ると、シランスのアパートを出た。  オークレール葬儀社は、モンパルナス墓地のすぐ近くにあった。  モグリのカジノのあった建物は目と鼻の先だ。その辺りに目をやり、新坂は苦笑した。そして、車を降りた。 〈オークレール葬儀社 創業1826年  火葬 大理石加工 24時間営業〉  ウインドーにはそう書かれてあった。緑色のペンキが塗られたドアの前に立ち、ベルを押した。すぐに、ドアが開いた。 「シランスからの贈り物だ」  頭の真中だけが禿《は》げた老人が、黙ってうなずき封筒を受け取った。     5  翌日の午後、約束通り、ピエロが新坂のアパートを訪れた。 「やあ、�彫像《スタチユ》�」  ピエロは、ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、中に入ってきた。  新坂のアパートは1LDK。広い居間は、ダイニングも兼ねている。 「何も問題はなかったか?」  新坂はブナ材で作られた円形のダイニング・テーブルの前に座った。  ピエロは首を横に振り、窓際のソファに腰を下ろした。そして、ポケットからガムを取り出した。新坂には勧めない。彼がガムを噛《か》まないのを知っているのだ。 「御苦労だった」新坂は、そう言って、報酬の五百フランをテーブルの上に置いた。  一回の手間賃は千五百フランだが、残りの千フランは、新坂が預かっている。そうして欲しいと、ピエロが言ったのだ。  ピエロと新坂は、一年ほど前、パリの東側に位置する街、ローマンヴィルにあるジプシーたちの宿営地で会った。ジプシーたちがパリ市内でかっぱらって来たブツを、新坂は時々、捌《さば》いているのだ。  キャンピング・カーの中で取引をしていた時、車の音がした。汚れたガラス窓から外を見た。新坂は、手に持っていたイヤリングを放り出すと立ち上がった。  自分の車を、乗り逃げした奴がいたのだ。新坂は、キャンピング・カーのドアを激しい勢いで開け、外に飛び出した。と、そこへ子供がひとり走ってきた。 「サツだ!」  新坂は、キャンピング・カーの後ろに回り、叢《くさむら》へ逃げこんだ。窪地《くぼち》に身を伏せる。パトカーが三台、埃《ほこり》を舞い上げて、宿営地に入って来た。いっせいにドアが開き、警官たちが、キャンピング・カーに向かって散らばった。お定まりの手入れではなさそうだ。  ツェリンスキーが所轄の警察に手を回したのか……。しかし、今さらジタバタしても始まらない。息を殺して、天命を待った。  三台のキャンピング・カーを調べた警官たちは、一度、パトカーの周りに集まり、何か相談をしていたが、やがて、引き上げて行った。しばらく、様子をうかがってから、新坂は、先程までいたキャンピング・カーに戻った。 「俺をパクリに来たのか?」  長老のロムが、首を横に振った。 「わしの息子のひとりが、ドジを踏んだ」 「何をやらかした?」  老人は皺《しわ》だらけの焼きすぎの棒パンみたいな顔を新坂に向け、親指を立て、首を切る真似《まね》をした。しかし、表情はまったく変わらなかった。 「取引を続けよう。あんたの車のことは心配いらん。道の両側に見張りをおいていた。車は、わしの孫が機転を利かせて、どこかに隠したんだ」  新坂が金を払った時、少年がキャンピング・カーに入ってきた。手に新坂の車のキーを持っていた。十四、五くらいの童顔の男の子。だが、仕種《しぐさ》としゃべり方は、いっぱしの大人だった。それに、薄い口髭まではやしていた。 「取引が済んだら、車の場所まで俺が案内する」そう言って、少年は、車のキーを新坂に投げてよこした。 「もう終わった。行こう」  ふたりは、一緒に宿営地を出た。 「名前は何て言うんだ?」新坂が訊いた。 「訊いてどうする?」 「俺は、�彫像《スタチユ》�だ」 「知ってる。俺の渾名《あだな》はピエロだ」 「助かったぜ、ピエロ。お前は頭がきれる」 「車は、あの壁の向こうだよ」  新坂は二百フラン札を五枚取り出し、ピエロに差し出した。 「いらない」  新坂は驚いた。ジプシーの少年が、金を拒否することはまずありえない。  新坂は、ピエロの両肩に手をかけて、彼をじっと見つめた。闇《やみ》の中に、黒い瞳《ひとみ》が光っていた。 「何が望みだ。言ってみろ」 「…………」 「金じゃなくて、何が欲しい」 「俺を雇ってくれないか」 「お前いくつだ」 「十五歳」 「若すぎる」 「ジプシーに歳はない。あんたらの世界じゃ、十五はガキだろうが、俺たちの世界じゃ違う」  一理ある。彼等の世界では、ピエロは、もう立派な大人なのかもしれない。 「なぜ、俺と働きたい?」 「別にあんたと働きたい訳じゃない。錠前破りや、引ったくりみたいなケチな盗人《ぬすつと》から足を洗いたいだけだ」 「故買屋の仕事も、ケチな仕事だぜ」 「噂《うわさ》じゃ、あんたはパリで、一、二を争う故買屋だって話だ。手始めにあんたと組んで、ブツの品定めなんかを教えてもらおうと思ってる」 「俺と組むか……」思わず新坂の口許《くちもと》から笑みがこぼれた。「まあ、いいだろう。明日、俺のところに来られるか、住所は……」 「もう調べてある」 「この金は取っておけ。その代わり、恩人でも使い物にならなかったら、容赦なくお払い箱にする」  ピエロは、黙ってうなずき、新坂の手に握られていた札を抜き取った。  新坂は、ピエロをブツの運び屋に使ってみた。新坂は警察に目をつけられている。ピエロは、ツェリンスキーたちを欺くのに好都合だった。新坂は、ピエロのために贋《にせ》の身分証や学生証を用意した。名前はミッシェル・フェリー。十七歳。リセの学生ということにした。  偽の書類を渡す際、口髭だけは剃れと命じた。口髭のせいで、かえってあどけなく見えることにピエロは気づいていなかったのだ。  ピエロの祖父、通称ロムは大戦中、ナチスの迫害を受け、ドイツを追い出され、流浪のはてにフランスに腰を落ち着けた。しかし、息子は、ジプシーは流浪するものだと、定住を拒否し、ピエロが生まれた直後、宿営地を飛び出した。そして、十数年後、ローマで殺人を犯し、新坂がピエロと会った三日後、マルセイユで御用となった。  そんな境遇で育ったジプシーの少年だから、歳のわりには、冷静で、度胸が据わっていた。  ピエロがなぜ、金を溜《た》めているのか、新坂は知らない。だが、その金を遊びに使う気がないことだけは、何となく察しがついた。何かもっとデッカイことをやらかすための資金にするつもりなのか、それとも、まっとうな生活を始めるために使おうとしているのか、そのどちらかだろう……。  新坂は、ピエロにビールを注《つ》いだ。 「今日の午後六時。ブツを、蚤《のみ》の市のデデのところに持って行ってくれ」 「分かった」 「今夜は、俺は行かない」  ピエロはガムを噛《か》むのを止めた。 「じゃ、代金は?」 「お前の他に取って来る奴はいないだろう。十一万五千で、取引して来い」 「一歩も引かねえよ」 「奴にはお前が行くことはもう知らせてある。なめたような口を利いたら、取引に応じるな。買い手はいくらでもいるんだ」 「あんたは、どうするんだ」 「俺は客に会う。大口の客にな」  そう言って、新坂は、窓から通りの様子をうかがった……。     *  ピエロが、蚤の市のデデに会っている頃、新坂は、�ピガールのドン・ジュアン�のリムジーンに乗って、国道一九二号線をパリ郊外エルブレの街に向かっていた。 「トラヴィアータの話だと、君は、賭事《かけごと》を止めたそうだね」�ピガールのドン・ジュアン�が葉巻をふかしながら、にっこりと笑った。「なぜだね……」 「理由は簡単です。勝てないからですよ」 「負けても、楽しいのが賭事じゃないかね」 「シランスは不幸な賭博師《とばくし》ということですか?」 「シランスの話などしておらん。君に訊いておるんだ」 「負ける楽しみを知る前に、大負けした。だから、賭事の深さは俺には分からない」 「もう一度、始める気は?」  新坂は弱々しく笑って、首を横に振った。 「ところで、昨日の話の続きですが、どうやって、本物と見分けのつかない贋物《にせもの》を作れるんですか?」 「簡単なことだ。そのチップ製造会社の人間が協力者なんだ……」 �ピガールのドン・ジュアン�は、説明を始めた。  その会社の社長ガストン・ブラッサール、五十五歳は、なかなかの商売人で、営業は人任せにできず、年中、世界中のカジノを回っている。ガストンは、三年前に最初の妻、エブリーヌと離婚し独身だったが、一年ほど前、ラスベガスで拾った若いカナダ人と再婚した。  ひとり息子のフィリップは、母親を追い出した上に、自分よりも若い女を家に入れた父親に我慢できなかった。  しかし、気弱なフィリップは、正面から父親と対決することはできず、うさ晴らしにパリの歓楽街で遊ぶようになった。もとより、遊びなれた男ではないフィリップは、アルザス出身の、テレサという売春婦に本気で惚《ほ》れ、甘い逃避行を夢みて女と街を出た。しかし、逃避行は、たった二時間で終わった。組織に捕らえられた女は、お定まりの折檻《せつかん》を受け、元の商売に戻った。むろん、フィリップも痛い目にあった。その時、フィリップの鞄の中から、ニースのカジノの賭け札が数枚出てきた。問いただすと、彼が、チップ製造会社の社長の息子で、技術開発は、主に彼がやっていることが分かった。  そのことを部下から聞いた�ピガールのドン・ジュアン�は、後日、フィリップをビガールのバーに呼び、贋|賭け札《プラツク》作りをそそのかしたのだ。うまく行けば惚れた女を自由にしてやる、という条件で。気弱なフィリップは、簡単には承知しなかった。だが、�ピガールのドン・ジュアン�は、女のことがなくても、フィリップが誘いに乗ると踏んでいたそうだ……。 「……坊やが父親を憎んでいることを、女から聞いていた。だから、必ず、色好《いろよ》い返事をすると思っておったんだ。それに、賭け札の偽造はだね、たとえサツに挙げられたとしても、贋札《にせさつ》作りに比べると、比較にならんほど罪が軽い。背信罪で引っ張られるだけなんだ」 �ピガールのドン・ジュアン�が、目を細めて笑った。  カセットから流れ出す曲が変わった。プッチーニの『修道女アンジェリカ』らしい。 「設備投資には金がかかったが、それだけの元は取れる。親父《おやじ》の会社が、どんなに複雑な賭け札を考案しても、その会社で本物を作っている息子が、わしの私設工場で同じ物を作らせているのだから、こんなに安全なことはない」  抜目のない�ピガールのドン・ジュアン�。こうでなければ、ここ何十年もの間、警察に尻尾《しつぽ》をつかませず、ボスとして君臨できる訳がない。  リムジーンは、コロンブ、コルメイユといった小さな街を過ぎ、やがて、セーヌ河岸に出た。 「工場は、セーヌに浮かぶ小島に作ったんだ」 「あの島ですか?」新坂は、前方に見える密林のような島を指し示しながら訊《き》いた。 「いや、あれは、エルブレ島だ。いまだ未開の島でね。わしはあの島に惚《ほ》れてるんだ」  新坂は驚いた。パリから二十キロばかり離れたところに、樹木が水面にまで達している南洋の島を連想させるところが残っているとは。 「工場のある島は、もっともっと小さい。だが、雰囲気は似てるよ」  エルブレ島をすぎた辺りに、小島が見えてきた。 「あの島だ」�ピガールのドン・ジュアン�は満足げにつぶやいた。  河岸を走っていたリムジーンは、いったん停止し、ブロック塀で囲まれた空き地に入った。  どうやら、島で働く連中のための駐車場になっているらしい。奥にプレハブの小屋があり、運転手が南京《ナンキン》錠を開けた。�ピガールのドン・ジュアン�が、中に入り島に電話を入れた。  車を降りた新坂は�ピガールのドン・ジュアン�と並んでセーヌの岸辺に向かって歩き出した。ボディガードが後ろからついて来る。  河岸に一台の赤いBMWが停まっていた。�ピガールのドン・ジュアン�がそのBMWに鋭い一瞥《いちべつ》を送った。  島までは百メートル足らず。岸辺にはボートが数隻、ロープで繋《つな》がれていた。  やがて、島からモーターボートが一隻、こちらに向かって走ってきた。 「誰か来ているのか?」�ピガールのドン・ジュアン�が、ボートに乗っていた男に訊《き》いた。 「ええ。フィリップの母親が来ています」 �ピガールのドン・ジュアン�は、舌をならしてボートに乗りこんだ。  ボートが動き出すと、気持ちのいい風が新坂の顔を撫《な》でた。島の周りを藪《やぶ》が被《おお》っていたが、その向こうにかすかに光が見えた。  小さな船着き場のところに、高さ二メートルほどある、訳の分からない彫刻が立っていた。 「芸術家のアトリエということになっているんだ」彫刻を見上げていた新坂に、�ピガールのドン・ジュアン�が言った。  ボート係の男を船着き場に残して、新坂たちは、鬱蒼《うつそう》とした樹木の間の、獣道のような小道を奥に進んだ。湿気が多く、道はぬかるんでいた。  やがて、木を伐採して作られた広場に出る。右に倉庫のような建物があり、その隣にバンガロー風の建物が二軒、並んで建っていた。  厳重に警備されていると想像していた新坂は拍子抜けした。 「工員たちは何人くらいいるんです」 「七人。皆、フィリップの父親にクビにされた連中だ」 「全員、この島に住んでいるのですか?」 「いや、ここに住んでいるのは、ふたりだけだ。さっきボートを操縦していた男は、そのうちのひとりだよ」 「あんたの部下はひとりも、ここにはいないんですか?」 「わしのところの人間を置くと目立つ。かえって、世間に怪しまれるだけだ。だが、ここに住んでいるふたりには、鼻薬を利かせてある」  ポプラの木が風に揺れ、はらはらと葉を散らしている中を、バンガローに向かった。  ボディガードがノックもせずに、手前のバンガローの扉を開けた。  女が振り返った。ボディガードの右手が、上着のポケットに吸い込まれた。 「フィリップ君は?」�ピガールのドン・ジュアン�が、静かに訊いた。  女が答える前に奥のドアが開いた。丸い眼鏡をかけた背の高い青年が現れた。歳格好は三十くらい。青白い頬《ほお》に、髭《ひげ》がまばらに生えていた。 「僕の母です。ちょっと用があって僕に会いに来たんです」 �ピガールのドン・ジュアン�は、満面に笑みをたたえ、フィリップの母親に挨拶《あいさつ》をした。  母親の名前は、エブリーヌ・シャタラン。五十二、三くらいの女で、髪を奇麗にセットし、真っ白なシルクのワンピースを着ていた。チップ製造会社の社長から慰謝料をたっぷりもらったのか、それとも、金持と新たにくっついたのかは知らないが、金に不自由しているようには見えなかった。 「私は、これで……」  エブリーヌは、息子の頬に軽く二度ばかりキスをし、エルメスのバッグを肩にかけると、そそくさとバンガローを出て行った。  ボートが出て行く音がするまで、誰も何も言わなかった。 �ピガールのドン・ジュアン�は、木製の長椅子《いす》に腰を下ろし、煙草に火をつけた。そして、低い声で「カルロス」と言った。  ボディガードは警察犬のように訓練が行き届いていた。その一言だけで、主人が何を望んでいるのか、察したのだ。  長い髪をオールバックにし、後ろで束ねたカルロスが、フィリップに近づいた。フィリップは壁にぴったりと張りついた。カルロスがフィリップの眼鏡を取った。あどけない少年のような目に恐怖が波打った。  カルロスは、フィリップの胸ぐらをつかんだ。 「わしの前に這《は》いつくばらせろ」�ピガールのドン・ジュアン�が言った。  カルロスはフィリップを引きずり、足を払った。 「なぜ、ここを母親に教えた?」 「プレジャンさんのことも、|賭け札《プラツク》の件も何も話してません」四つん這いになったままフィリップは、�ピガールのドン・ジュアン�を見上げた。 「なぜ、ここに呼んだんだ?」 「本当は今夜、母親とパリで会うことになっていたんですが、あなたから、ここにいろと言われたものだから……」 「何をしゃべった?」 「何にも、しゃべっていません。父親とうまく行かないから、ひそかにこのバンガローを借りて、お、女の子なんか呼んで、楽しくやっていると言っただけです。彼女は、私がここにいることを父に教えたりはしません。母も父も憎んでいるんですからね」 �ピガールのドン・ジュアン�はフィリップの顔に、靴底を押し当て、踵《かかと》の縁で、鼻から口にかけてをなぞった。 「お前に、テレサを預けるのが心配になって来たよ。マザコンと一緒になる女は不幸になる」 「フェルナン、もういいだろう。早くブツを見せてくれないか」新坂が言った。 �ピガールのドン・ジュアン�は、新坂を見て、柔和に微笑み、靴をフィリップの顔から外した。 「もう、母親は呼びません。プレジャンさん。誓います」フィリップが言った。 「それが賢明だよ、坊や。母親がセーヌ川に沈むのは嫌だろう?」 「はい」 「よし、立て」  フィリップが立ち上がると、カルロスが陰湿な笑みを浮かべて眼鏡を渡した。 「さあ、芸術作品を見せてもらおうか?」  フィリップは、口についた泥を払いながらうなずいた。  倉庫風の建物は工場で、ブツは地下に隠されていた。湿気の多いむっとする地下。相当、古い地下室らしい。  壁に、マリアの像が飾られていた。 「以前は、地下礼拝所だったらしい。この辺りの木を伐採させた時、偶然、見つけたんだ」そう言って、�ピガールのドン・ジュアン�は、マリア像の前でうやうやしく十字を切った。  フィリップはダンボール箱を一つ、棚の上段から取り、机の上に置いた。 「これは、トゥルーヴィルのカジノ用です」  フィリップが新坂を見て言った。 「このダンボール一箱に、どれくらい入っている?」 「五百フランの賭け札が三百個。十五万フラン分です」  ダンボールの数は、ドルの賭け札の分を入れると七十個ほどになる勘定だ。 「アンギャンのカジノの賭け札はないのか」 「ありません。あそこは、親父の会社と取引していませんから」 「これを十枚、俺にくれませんか」新坂は、後ろに立っていた、�ピガールのドン・ジュアン�に訊いた。 「試す気か?」 「ああ」 「わしを信用できんのか」 「そうじゃないんです。客を信用させるには、実際、使ってみなきゃならない。こんな物を捌《さば》くのは俺も初めてだが、客の方も初めてでしょう。話だけではどうも……。実際にやって見せないとね……」 「分かった。持っていけ。何なら、ベガスで使えるヤツも持っていくか」 「そうさせてもらえると手間が省けていい」  フィリップが、違うダンボールを棚から下ろし、そこからドルの賭け札を取り出した。  新坂はサンプルをアタッシェ・ケースにしまった。 「で、いつ頃、ブツを引き取りに来る?」 「客が見つかり、取引が成立したら、引き取りに来ます」 「トラックなら、わしの方で用意できるが……」 「せっかくの水路を利用しないって手はないでしょう」 �ピガールのドン・ジュアン�が、満足げな笑みをうかべて、うなずいた。     6 �ピガールのドン・ジュアン�は新坂を食事に誘った。トラヴィアータの館で食べると聞いて、新坂は承諾した。  三階にある小部屋に案内された。ヴェルディの『リゴレット』が流れていた。  本格的なフルコース。�ピガールのドン・ジュアン�は、サラダと、オマール海老《えび》のスープをあっと言う間に平らげた。  新坂はフォークとナイフを置き、白ワインに口をつけた。 「君は少食だね。それとも、うちの料理が口に合わんか?」 「いや、そうじゃありません。あまり腹が減っていないだけです」  カジノにいるはずのトラヴィアータが気になってしかたがなかったのだ。  給仕が入ってきた。メイン・ディッシュは、仔鳩《こばと》のローストきのこ添えだった。 「あの賭け札をどれくらいの値で捌《さば》くつもりなんだ」 「そうですね、現物の四割では売りたいですね」 「四十万ドルと四百万フランか」 「それの二十パーセントは俺がいただきます」 「それで、誰に捌《さば》くか考えてあるのか?」 「ええ」 「誰だね」 「ポルノの男優です」 「そんな奴に買えるのかね?」�ピガールのドン・ジュアン�はフォークを宙に浮かせたまま訊《き》いた。 「その男は、パリに八軒のアパートを持ち、サンドニにポルノ・ショップを二軒とライブ・セックス・ショーの小屋を一軒、経営しています。数年前まで、奴はスリの集団のボスだったんです。奴なら金を用意でき、しかも仲間を使って、カジノであの賭け札を現金に替えることが可能です」 「なるほど。俺の知らない奴か……。気にいったよ。そういう奴に、捌いた方が、あとあと足がつきにくい。で、ドルの方もそいつに売るのか?」 「できたら、そうしたいと思っています。奴の兄貴は、ニューオーリンズでバーを経営してるんですが、聞いた話によると、フランスで詐欺の前科があるそうです。兄弟なら、裏切り合う可能性も少ないですからね」 「君に任せてよかった」�ピガールのドン・ジュアン�は、口をもぐもぐやりながら言った。  食後、新坂は遊戯室に入った。相変わらず着飾った女たちとタキシード姿の男たちで賑《にぎ》わっていた。 �ピガールのドン・ジュアン�は、客の挨拶《あいさつ》に応《こた》えながら、まっすぐ麻雀室に向かった。  黄金の雀卓。三人の紳士とトラヴィアータが囲んでいた。  トラヴィアータは、黒いドレスを着、長いパイプ・ホルダーを指の間に、優雅に挟んでいた。 �ピガールのドン・ジュアン�が彼女に近づき、後ろから肩に手をかけ、頬《ほお》にキスをした。トラヴィアータは、キスをされたまま、じっと新坂を見つめた。 「どうだね、調子は?」�ピガールのドン・ジュアン�が彼女に訊《き》いた。 「勝ってるわ。これでラストだから、次に入って下さらない」  トラヴィアータの、赤いマニキュアを塗った爪《つめ》が牌《パイ》にのびた。 「ツモよ」  彼女は、三九《ザンク》を上がって、その半チャンはトップだった。 「わしの腕前を見るかね」�ピガールのドン・ジュアン�はフィリップを脅かした時の雰囲気からは、まったく想像しがたい好々爺《こうこうや》に変貌《へんぼう》し新坂に笑いかけた。  トラヴィアータは、新坂に短い挨拶をし、部屋を出て行った。すぐに後を追うわけには行かない。新坂は、しかたなく�ピガールのドン・ジュアン�の横に腰を下ろした。  ボスの麻雀は強引だった。どんな場合でも、好きな手に持って行こうとする。それだけ上がりが遅くなる。だが、運の強い男らしく当たり牌はなかなか引いてこなかった。そして、時々、大きいのを上がった。ゴリ押しの麻雀である。いかにもギャングのボスらしい。  新坂は頃合《ころあい》を見計らって席を立ち、バーに行った。  トラヴィアータは、昨晩、新坂の座っていた席に腰掛けていた。その周りを、初老の紳士たちが取り囲んでいる。  逸《はや》った心を持てあましたまま、しばし新坂はバーの入口につっ立っていた。自分でも驚くほど落胆は激しかった。  ふと右頬に視線を感じた。瞬きを忘れた目が新坂を見ていたのだ。新坂は、ゆっくりとシランスに近づき、彼の正面に腰を下ろした。コニャックを頼む。 「封筒は届けたよ」新坂は小声で言った。 「すまなかった」 「今夜は尾行があるかな」 「多分あるだろう。私をつけているとすればの話だがね」 「今日、俺の後ろにくっついて来た車はいなかったようだ」 「今夜も、�ピガールのドン・ジュアン�に会いに来たのか?」 「まあ、そうだ」 「今の君なら、勝てる。一勝負やって見てはどうだ」 「どうして、俺に賭事を勧めたがるんだ。俺はやる気がないと言ったろう?」 「嘘《うそ》だ。君は、自分を偽っている。大きなバクチを打ちたがっているが、それを自制しているだけだ」 「俺の心が読めるのか。人の当たり牌が分かるように」 「君は、不器用な人だ。だから、その点だけは賭事に向いている」 「じゃ、あんたは世界で一番、不器用な人間というのか」 「私の場合は例外だ。器用も不器用もない」 「一度も負けたことはないのか、ギャンブルで」 「あるさ。だが、トータルでは必ず勝つ。そして、一回勝負の場合は絶対に負けない」  シランスの目がガラス玉のように光っていた。新坂はコニャックのお替わりを頼み、煙草に火をつけた。 「なぜ、あんたがそんなに強いのか、俺は興味がある。人間業とは思えない」  シランスは黙って、煙草に火をつけた。  酒が来た。新坂は一杯飲み、背もたれに躰《からだ》を倒した。 「あの時は、俺が、ナチュラル9を出しても、あんたも同じようにナチュラル9を出し、俺が8を出し、今度は勝ったと思っても、あんたは必ず9を出した」 「イカサマなどしていない」 「分かってる。あれだけやって、一度も勝たせないようなイカサマは存在しない。俺が賭事を止めたのは、もう懲り懲りだと思ったからじゃない。若い時期に、あんたの超人的な賭事の才能を目の当たりにしてしまった俺は、自分がケチなギャンブラーに思えて、やる気をなくしてしまったんだ。俺は、あんたのその強さの秘訣を知りたい」 「教えることなど何もない。賭事は学習できない。ゲーム性の強い麻雀だって、結局は、国士無双《こくしむそう》を上がられれば、大概、負けだ。まして、9が一番強いだけのバカラなど、どうやっても学べない」 「そんなことは分かってる。何もあんたから御教授願おうなどとは思っちゃいないよ。ただ、その神がかり的な冴《さ》えがどこから来るのか知りたいだけだ」 「それは、一生、君には……」そこまで言って、シランスの目は、新坂の頭上に向けられた。 「座っていいかしら」トラヴィアータの声。 「どうぞ」シランスが答えた。「私は、失礼するがね……」 「一勝負なさりに行くの?」 「ああ」  シランスは、ゆっくりと立ち上がり、バーを出て行った。 「真剣にお話しなさっていたわね、おふたりで」トラヴィアータが、ホルダーに煙草をつめた。  新坂が火をつけた。目が合った。トラヴィアータが先に視線をはずした。 「そうですか? 大した話はしていなかったんですがね」新坂は淡々とした口調で言った。 「シランスが、あんなにしゃべるのは珍しいことよ」  バック・ミュージックが変わった。  新坂はその曲に聞き入った。  ヴェルディ作『|椿 姫《ラ・トラヴイアータ》』。 「あんたも、オペラ・ファンですか?」新坂が訊《き》いた。 「別に」トラヴィアータはあっさりと答え、「フェルナンとのお仕事、順調に行ってます?」と訊いた。 「ええ」新坂は短く答えて、口をつぐんだ。  ボスの女だからと言って、気を許して仕事の話をするのは禁物なのだ。  トラヴィアータが、皮肉な笑いを口許《くちもと》に浮かべた。 「大丈夫よ。私、フェルナンとあなたが何をやろうとしているのか知ってます」 「フェルナンがしゃべった?」 「他に、教えてくれる人なんかいませんわ」 「じゃ、どこまで進行しているかも、彼から聞いて下さい」 「用心深いのね」  新坂は、トラヴィアータの目を見てうなずいた。彼女も新坂から、しばし視線を外さなかった。  深く澄んだ目の奥で、感情が動いた。新坂は、そんな気がしてならなかった。だが、すぐにその思いを打ち消した。誤解。美しい目の女に見つめられた。それだけの話かもしれない。  新坂は、心の中で苦笑した。何事にも用心深くなっている。この十数年間に身についた、生き残るための習性が、女にまで働くようになってしまったのだ。 「あなた独身?」トラヴィアータが訊いた。 「結婚しています」 「私の勘、外れたわ。絶対に外れない自信があったんだけど」  トラヴィアータの勘。実は当たっていた。新坂は、ブリジットという四十一歳の女と、戸籍上は結婚しているが、それは、あくまでお互いの利益になるからだ。  ブリジットは、夫と離婚し、ひとりで、家電の輸入会社を経営している。だが、会社といっても、アルバイトをひとり雇っているだけの、ちっぽけな会社で、創立二年目で、倒産しかかった。その頃、新坂は、ブリジットと或るバーで知り合ったのだ。ふたりは、その夜、ベッドを共にした。寝物語に聞いた会社の事情を、新坂は利用した。結婚を条件に、借金を新坂が払い、以後、毎月五千フランずつ払うことを申し出たのだ。即答を避けたブリジットだったが、結局、新坂の申し出を承知した。フランス女と結婚していれば、相当のことがないかぎり、国外退去にはならない。新坂は、フランス人のお好きな�人権�を利用しようと考えたのだ。ブリジットには、自分のやっていることは、いっさい知らせていない。彼女も訊くのが怖いのか、いっさいそのことには触れなかった。 「結婚と言っても、いろんな形がありますよ」新坂はグラスを空けた。  従業員のひとりが、トラヴィアータのところにやってきた。 「限度額を超えた勝負を、おやりになりたいお客様が、いらっしゃるのですが」 「バカラ、それとも、ルーレット?」 「バカラです」 「すぐに行くわ」  新坂も、トラヴィアータの後ろについて遊戯室に入った。バカラのテーブルにギャラリーが集まっていた。  正装したギャラリーの間から、シランスの顔が見えた。彼の横には、札束が積まれていた。 「あの方が、四十万フランの勝負をしたいとおっしゃっているんです」従業員が、トラヴィアータの耳元で囁《ささや》き、視線をバカラのテーブルに向けた。  シランスの相手は、濃いブルーの縦縞《たてじま》のスーツを着た紳士だった。濃茶の眼鏡をかけ、少し金髪がかった髪に白いものが混じっていた。 「ボン・スワール、ムッシュ……」トラヴィアータが、シランスの相手に挨拶《あいさつ》をした。  男は立ち上がり、きちんと挨拶を返した。 「シャリー。アントン・シャリーと申します」  トラヴィアータは、じっくりと男を見つめた。 「どなたの紹介でこちらに?」 「私よ」シャリーの横に立っていた中年女が答えた。「こちら、モンペリエで不動産業を営んでらっしゃるのよ。トラヴィアータ、勝負させて上げて」 「マダム、このお若い方と私の特別な勝負をお認めいただきたい。十万から始めて、四十万までの三回勝負です」 「シランス、あなたお受けになるの?」トラヴィアータが、静かな勝負師を見つめた。  シランスは黙ってうなずいた。 「分かりました。おふたりの希望とあらば、承知せざるをえませんわ。ただし、館は、いっさいお金をお貸ししませんので、そのおつもりで」  ふたりは、監視役の従業員を真ん中にテーブルの端と端に座った。  シャリーの金を従業員が、テーブルの上で数えた。ブリッジと呼ばれるカジノならではの数え方で、札がテーブルに並べられて行った。賭け札は使われず、札束はそのままシャリーの前に置かれた。  シランスは、シャリーに親の権利を譲った。シャリーは、新しいカードを目の前で用意させた。このカジノで行われているバカラも、以前、新坂がやっていたバカラと同じルールのものだった。  シャリーがシューからリズミカルに、カードを抜き、シランスに二枚、自分に二枚配った。シランスのカードをカード係が、彼の目の前に置いた。  新坂はシランスの後ろに立った。  シランスはカードをちらっと見た。ハートの7。もう一枚はクラブのクイーン。 「結構」  シャリーは二枚のカードを器用に、入れ換え、ちらっと覗《のぞ》き、開いた。クラブの3とスペードの4。同点。そのゲームは引き分けだった。  次のゲームは、シランスがナチュラル9を引き、まず先勝した。  テーブルに積まれた札束の内から十万フラン分が、シランスの方に移動した。シャリーは、帯で止められた五百フランの札の束を、また、テーブルの前に押し出した。真剣な目つき。  賭け金は二十万フランになった。  シランスは一言も口を利かず、カードが配られるのを待った。  シランスの点数は3。もう一枚カードを要求した。  シランスの三枚目はダイヤのジャック。トータル3は変わらなかった。  シャリーは無表情だった。彼も三枚目のカードを要求した。スペードの8。 「親は2」カード係が伏せられていたカードを開き、モノトーンな口調で言った。  シランスのカードが捲《めく》られた。 「子は3」  ギャラリーから、溜息《ためいき》が漏れた。またもや、シランスが勝ったのだ。  シャリーのこめかみが、一瞬、ピクリと動いた。  最後の勝負。賭け金は四十万フランである。  シランスの手は、クラブのAにハートのA。もう一枚カードを要求した。配られたカードはハートの7だった。  シャリーは、カードを見るなり、すぐに開いた。スペードの3にハートの2。  点数は5。もう一枚引いてもいいし、そのまま勝負してもいいのだ。シャリーは伏せられているシランスの二枚のカードをじっと見つめた。  もう一枚引いた。クラブの3。シャリーの頬《ほお》がほんのわずかに緩んだ。  シランスのカードが静かに捲られた。  シャリーの顔が真っ青になった。  再び、ギャラリーがどよめいた。シャリーは、落胆を隠せなかった。眼鏡の蔓《つる》を触り、それから口許《くちもと》に手を当てた。艶《つや》のいい顔に、じんわりと汗がにじんでいた。  知らず知らずのうちに、新坂は興奮し、シランスを応援しているのに気づいた。  シランスはたった数分のうちに七十万フランを手に入れた。  しばし茫然《ぼうぜん》としていたシャリーは、やがて、負けた金を、シランスの方に押した。 「君は化け物だ」シャリーは力なくそう言い、立ち上がった。  シランスは、札束を前にして黙っていた。ギャラリーが捌《は》け、そのテーブルにはシランスひとりになった。  新坂は、シャリーの座っていた位置に座った。 「あんたが、勝つと思っていたよ」 「奴は強い。魂のすべてを七十万フランに賭《か》けていた」 「しかし、その強い相手に、あんたは勝ったじゃないか」 「私は、勝つ運命にある。それだけのことだ」 「あんたの言っていることが俺にはさっぱり分からない。本当にあんたは化け物なのかもしれないな」 「…………」シランスは何も答えず、勝った金を、鞄に詰めた。  麻雀室から�ピガールのドン・ジュアン�が出てきた。大きな勝負があったことは、すでにボスの耳に入っていた。 「シランス。トラヴィアータの館の客を、君は減らすつもりらしいな」冗談口調でそう言い、�ピガールのドン・ジュアン�は大声で笑った。「まあいい。君のような博打うちを、わしは見たことがない。おおいに勝ってくれたまえ」 �ピガールのドン・ジュアン�は、人と約束があると言って、葉巻の煙を残して遊戯室を出て行った。ほどなく、トラヴィアータが戻ってきた。 「今夜、フェルナンは、もう戻ってこないのか、ここには?」新坂が小声で訊いた。 「あの人は、ここには泊まらないわ。必ず、エルムノンの森にある屋敷に帰るのよ」 「客が帰ったら、三人で一杯やりに行かないか?」  トラヴィアータが、新坂の右手の甲に掌を乗せ、にっこりと笑った。 「フェルナンがいい顔しないわ、そんなことしたら」 「嫉妬《しつと》深いんだな、ボスは」  トラヴィアータはうなずいた。  新坂はシランスと一緒に館を出た。昨晩と同じように、ふたりは、街路灯が光を落としているだけの、寂しい歩道を車に向かって歩き出した。 「明日も、ここに来るかい?」 「いや、明日からしばらくは、ドーヴィルとトゥルーヴィルのカジノへ行く」 「シランス。トラブっているのなら言ってくれ。助けになれるかもしれない」 「なぜ、君は私のことに……」 「言ったろう。あんたが、あんなに強い秘密を知りたいんだ」 「それは、君には一生かかっても分からんと言ったはずだ」 「送ろうか?」 「いや、今夜はひとりで帰る」  そう言い残すと、シランスは、ゆっくりと歩道を渡った。     7  新坂は、車の電話から自宅に電話を入れ、メッセージを聞いた。  すべてうまく行った、とだけピエロは言い、電話を切っていた。他にはどこからもメッセージは入っていなかった。  車を出す。バックミラーには一台の車も映ってはいなかった。  一気に凱旋門まで走り、シャンゼリゼ大通りを下った。  カフェのテラスは、どこも混み合い、新作フィルムを上映している映画館の前には、長い列ができている。列を作っている人から小銭をもらおうと、若者がギターを抱えて歌を歌っていた。  ロン・ポワン・シャンゼリゼの交差点を左折し車を停めた。  アパートに戻る気はしない。  トラヴィアータの掌の温《ぬく》もりが忘れられなかったのだ。  マチニヨン大通りにあるサファリ・クラブというバーに入った。ベンチマークのストレートを頼む。  午後十時半すぎ。トラヴィアータの館のカジノが終わるのは十一時である。長引いても零時には、トラヴィアータの躰《からだ》はあくはずだ。 �ピガールのドン・ジュアン�の顔が突然脳裏に浮かんだ。トラヴィアータはボスの女。何を、お前は血迷っているんだ。世間知らずの青二才じゃあるまいし、頭がどうかしてるぜ。無茶な博打を打っていた頃の、お前に戻りたいのか。仕事においては、細心の注意を払って、危険を冒さないお前が、なぜ、ボスの女に……。耳元で、自分の声が囁《ささや》いた。  新坂は酒を飲み続けた。自然に口許《くちもと》から笑みがもれた。自嘲《じちよう》の笑み。組織の末端にくっついて麻薬の運び屋を始めた時から、新坂は、おかしなことに堅実に生きるようになった。賭事《かけごと》はむろんのこと、派手な女遊びもやらず、友人も作らず、ただひたすら、�商売�に励んだ。故買屋になって、或る程度の金が動かせるようになっても、それは変わらなかった。安全でつまらない人生を送るギャング。何のために、ヤバい橋を渡ってまで盗品を捌《さば》いているのか……。かつては、何事でも一番でなくては、我慢できなかった勝気な男が、どうして、こんな生活に満足できるようになったのか。自分でも不思議だった。  しかし、トラヴィアータに関しては、押さえが利かなくなる予感がした。この数年、本当の意味で心に波風がたったことが一度もなかった新坂は、自分の行動を恐れた。  五杯目の酒を飲み終えても、いっこうに酔いは回って来なかった。  再び時計を見た。零時十分。新坂は金をテーブルに置くと、店を出た。  トラヴィアータを訪ねてみる。その決心は、エンジンをかけても、まだついていなかった。迷ったら引く。これまではそうしてきたではないか。  しかし、新坂のアウディは、ヌイイに向かって走り出していた。  好きな女の子の家を探しに、自転車で出掛ける中学生のような気分がした。だが、新坂は中学の頃には、一度も、そんなことをしたことはなかった。毎日が音楽と向き合う生活。そんな暇はまるでなかったのだ。  車を、トラヴィアータの屋敷の反対側に停めた。リア・シートに置いてあったアタッシェ・ケースを取る。賭け札のサンプルが入っているのだ。車の中には置いてはいけない。  トラヴィアータの館はすべて電気が消え、赤屋根の家からも明かりはもれていなかった。三灯式の庭灯だけが、淡い光を辺りに投げかけていた。  門扉の鉄柵の前に立ち、インターホンを押そうとした。その時、門扉がかすかに開いているのに気がついた。  妙だ。閉め忘れたなんてことは考えられない。  静かに扉を押し、中に入った。コンクリートを敷き詰めた小道を、赤屋根の家に向かって歩き出した。  突然、赤屋根の家のドアが開いた。 「早くしろ!」男の鋭い声がした。  新坂は慌てて、芝生に入り茂みに隠れた。  三段ばかりある階段を小柄な男が降りてきた。そして、その後ろを、ふたりの男が女を両側からかかえてついてくる。  女はトラヴィアータ。ぐったりとなり、頭が前に垂れていた。  新坂は、アタッシェ・ケースを芝生の上に置いた。タイミングを計る。先頭を行く男の赤茶の靴が見えた。新坂はさっと通路に飛び出し、小柄な男の前に立ちはだかった。男は目をむき、一瞬、躰をこわばらせた。新坂のパンチが男の顔面をとらえた。男は、芝生の上までふっ飛んだ。  トラヴィアータをかかえていたふたりの男が後ずさりを始めた。駆け寄る。  頬《ほお》のげっそりこけた鷲鼻《わしばな》の男が、トラヴィアータから手を離すと、紺のブルゾンの懐に手を入れた。ステンレス・スチールの銃が、半分ほど姿を現し、庭灯の光を受けて、きらっと光った。新坂は、男の腹を力一杯殴った。男はうっとうめいて、蹲《うずくま》った。顎《あご》に蹴《け》りをいれる。男は仰向けに倒れた。新坂は、男の懐から拳銃《けんじゆう》を取ると、トラヴィアータをかかえて表に向かう男に向けた。 「動くな!」  男の動きがぴたりと止まった。 「女を芝生におろせ。早く!」  男は言われた通りにした。 「よし、その横の木に両手をついて待ってろ」  男に近づいた新坂は身体検査をした。だが、武器は持っていなかった。 「こっちを向け」  男は両手を上げたまま、振り向いた。丸顔の色白の男だった。顎の肉がダブついていた。  後ろで人の気配がした。新坂は、男の後ろに回って、銃を構えた。  腹にパンチを食った鷲鼻の男が起き上がったのだ。 「そこに倒れている男を連れて失《う》せろ!」新坂は低くうめくように言った。  男は、小柄な男を抱きかかえ、腹を押さえながら屋敷を出ていった。  やがて、車がタイヤを軋《きし》ませて走り去る音が聞こえた。 「誰に頼まれた」 「し、知らない奴だ。バーで金をもらって……」  新坂は男の胸ぐらをつかんだまま引き寄せ、ぶよぶよの頬に銃口を押しつけた。撃鉄を起こす。  男は鼻の穴をヒクヒクさせて、新坂を横目で見た。 「家の中でゆっくり話を聞こうか?」 「俺は何も知らん。た、助けてくれ……」  男の唾《つば》が新坂の頬に飛んだ。  トラヴィアータがうめき声を上げた。新坂はちらっと振り返った。隙《すき》。丸顔はその隙を見逃さなかった。胸ぐらをつかんでいた新坂の手を内側から払い、股間《こかん》に蹴りを入れた。新坂は、一瞬、息がつまった。丸顔は、脱兎《だつと》のごとく出口に向かって走り出した。  新坂には、端《はな》から奴を撃つ気はなかった。ここで拳銃をぶっ放したら、大事になる。警察の手から逃れられたとしても、フェルナンに、どう言い訳するのだ。  新坂は、トラヴィアータを抱きかかえ家の中に入った。居間のソファに寝かせた。そして、アタッシェ・ケースを取りに、いったん外に出、再び家に入ると、ドアに鍵をかけた。玄関ホールの奥に、門扉の自動開閉装置とスクリーンが取りつけてあった。�閉�のボタンを押すと、画面に映っていた門扉が閉まった。  トラヴィアータは、か細い声でうめいている。  新坂は、トラヴィアータの顔の横にしゃがんだ。声をかけようとした。だが、しばらく、じっと彼女の顔を見つめていた。  トラヴィアータは、腹のあたりをまさぐり、眉間《みけん》に皺《しわ》をよせた。そして、目を開けた。 「もう大丈夫だ。ゆっくり休みなさい」 「あ、あなたは……」 「�彫像《スタチユ》�だ」 「�彫像�……」トラヴィアータは、譫言《うわごと》のように言った。「なぜ、あなたがここに……」 「そんなことはどうでもいい」 「お水、下さらない」  新坂は、キッチンに行き角氷を入れた水を用意した。  トラヴィアータの頭を起こし、ゆっくりと水を飲ませた。半分ほど飲んだ彼女は邪険な手つきで、グラスを押しのけた。そして、ソファに肘《ひじ》をつき起き上がろうとした。 「寝てた方がいい」  しかし、トラヴィアータは新坂の言葉を無視した。 「あなたが、私を助けてくれたの?」  新坂は黙ってうなずいた。 「でも、どうしてあなたが、この屋敷に?」 「あんたに会いに来た」新坂は、グラスをテーブルの上に置きながら、ぽつりと言った。 「私に会いに……」トラヴィアータはそこまで言って押し黙った。  電話が鳴った。トラヴィアータが躰《からだ》をピクリとさせ、起き上がろうとした。気ばかり焦っているが、躰がついていかないといった様子。  新坂は彼女の躰を支え、電話口まで連れて行った。受話器を取る前、トラヴィアータは、新坂を振り返った。近くにいられては迷惑。トラヴィアータの目は、そう言っていた。  新坂は、ソファに戻り煙草に火をつけた。 「ああ、フェルナン……。眠っていたのよ……。それは駄目……。そう……。大丈夫よ、心配しないで……。ええ……そうして……」  受話器を置いたトラヴィアータは、軽い溜息《ためいき》をもらした。そして、新坂に何も言わず、居間を出て行った。  広さのわりには、極めて家具の少ない部屋に、新坂はひとり残された。奥にあるルイ十六世様式のビューローの引き出しが、ことごとく開けられていた。  トラヴィアータを連れ出そうとした奴等が部屋を物色したようだ。  あの連中は、トラヴィアータを殺す気はなかったらしい。一体、何が狙《ねら》いで、トラヴィアータを誘拐しようとしたのだろうか……。  トラヴィアータが戻ってきた。髪の乱れと化粧を直してきたらしい。頬《ほお》に赤みが戻っていた。だが、全体の雰囲気は、まだ沈んでいて、潤んだ目は、どこか不安げで落ち着きがなかった。 「お酒、飲みたいわ。用意して下さらない。あのカウンターの後ろにそろってるわ」  暖炉の横に小さなカウンターがあった。新坂は、その中に入り、酒の用意をした。トラヴィアータは薄い水割りを所望し、新坂はロックにした。  カウンターの端に、小ぶりの檻《おり》が置いてあり、その中で、二匹のハツカネズミがせわしげに動き回っていた。 「珍しいものを飼ってるな」 「珍しくはないわ、ハツカネズミなんて」 「それは、そうだが、君のイメージとはかけ離れている」 「ハツカネズミは、私が、この世で一番好きな生き物なのよ」 「変わってるね。俺は……」  新坂の言葉を、トラヴィアータが途中で遮った。 「助けてもらって、こんなことを言うのは、失礼だと思うけど、もうここには来ないで」  新坂は、ソファの前にある椅子《いす》に腰を下ろした。 「そんなにフェルナンが怖いのか?」 「故買屋だって、ギャングのはしくれでしょう。今さら、そんな質問をするのは変じゃない」 「あんたの言う通りだな」新坂は薄笑いをうかべた。 「だったら、なぜ?」 「さあね。俺は、変になっちまったらしい」新坂は、トラヴィアータを見つめた。  トラヴィアータは天井を見上げた。 「ともかく、迷惑よ。ここに来られるのは」 「フェルナンのことを本気で好きなのか?」 「あなたお幾つ?」 「三十四だ」 「三十四にしては、子供っぽいことを訊《き》くわね」 「どうなんだ。奴のことが好きなのか?」  トラヴィアータは、新坂に視線を戻し、急に弱々しく笑った。 「私はフェルナンを愛してはいないし、フェルナンも私を愛してはいないわ。彼はただ、私のような若い女を自分の物にしておきたいだけよ」 「だったら……」 「この生活が幸せだなんて言わないわ。でもね、今の状態から抜け出そうなんて、まったく考えていない。これでいいの。この暮らしがずっと続けばいい、と願っているだけよ」 「鳥籠《とりかご》に入っているような暮らしがいいのか」 「ええ。籠が大きければいいのよ。私に、籠の鉄格子が見えなければ、それでいいの。だから、私も、籠の端には行きたくない。鉄格子の見えるところからは、外も見えるもの」 「いやに厭世《えんせい》的なんだな。厭世的な人間は、賭け事に一喜一憂しないものだって、誰かが言っていたが、あんたの場合は例外らしい」 「私、厭世的だなんて自分のことを思ったことないわ。むしろ、あなたの方が、厭世的な匂《にお》いがする」 「俺は、単なる故買屋だよ。絶対に、キナ臭いことには手を出さない、安全第一主義の故買屋だ」 「安全第一主義を続けることね」トラヴィアータは、言い放った。  新坂はグラスをテーブルに置き、立ち上がった。トラヴィアータが、新坂の腕を取った。 「�彫像《スタチユ》�……。もう少し、ここにいて」  新坂は、黙って彼女の横に腰を下ろした。そして、いきなり、彼女を抱きよせ、キスをした。トラヴィアータは躰《からだ》をこわばらせ、新坂から離れようとした。だが、新坂は、強く抱きしめて離さなかった。やがて、トラヴィアータの躰から、すっと力が抜けた。  長いキスの後、ふたりはどちらからともなく、躰を離した。沈黙。その沈黙を先に破ったのは新坂だった。 「さっきの連中、何者か分かってるのか?」  トラヴィアータは、ゆっくりと立ち上がり、自分で酒を作った。 「分からない。まったく見当もつかないわ」  ソファからカウンターまでは、ゆうに二十メートルはある。トラヴィアータの声が高い天井に響いた。 「あの連中には、あんたを殺す気はなかった。誘拐しに来たんだ。ギャングの女を誘拐するとなると、ギャングしかいないが、あの連中は、まったくギャングらしくなかったな」 「物置の辺りで、ガラスの割れる音がしたの。それで廊下に飛び出したら、いきなり、お腹《なか》を殴られて……。私が覚えているのはそこまで。気がついたら、あなたがいたのよ」  トラヴィアータは飲物を持って、ソファに戻ってきた。 「この話、誰にもしゃべらないでおいてくれるわね」 「俺は、しゃべれる立場にはいないよ」 「そうね」トラヴィアータが短く笑った。 「また、来てもいいだろう」新坂はトラヴィアータを覗《のぞ》きこんだ。  彼女は、ゆっくりと首を横に振った。 「来ないで、お願いだから。私とあなたは、うまく行きっこないわ」 「あんたの勘は、いつも当たるわけではあるまい。あんたはシランスとは違う」 「勘じゃない。あなたは、私とバカラをやっているつもりなのに、私はルーレットをやっている。それが、あなたには分からないのよ」 「じゃ、俺があんたのやっているゲームに合わせればいいんだろう」 「それは不可能……。さあ、帰って�彫像《スタチユ》�。そして、もう二度とここには来ないで。カジノでなら、毎晩会える。それで我慢して」  新坂は、ふっと溜息《ためいき》をついて立ち上がった。トラヴィアータが戸口まで見送りに来た。  新坂はもう一度、彼女にキスをした。トラヴィアータは新坂を受け入れた。しかし、先程のようには、心のこもったキスではなかった。     8  ツェリンスキーたちの尾行は、あれ以来、なくなったようだ。しかし、これで、ツェリンスキーが、新坂逮捕をあきらめたとは考えられない。新しい手を模索中。そう心しておいた方が賢明だ。  新坂は、トラヴィアータの家を訪ねた翌日、娼婦《しようふ》街、サンドニにある劇場に足を運んだ。偽造賭け札を買わせたいクロード・ラマルシュは、自分の経営する�ハード・コア�劇場に、自ら出演しているのだ。新坂は、普通にチケットを買って中に入った。クロードは演技の真っ最中だった。素っ裸の女にサンドイッチにされ、熱演していた。  ショーが終わると、新坂は楽屋に顔を出した。クロードは、四十二歳。マッチョ・タイプの品のない二枚目で、盛り上がった筋肉とセックスに強いことだけが、男の価値だと考えている単純な男だ。  トランクス一枚で、女たちに演技指導をしていたクロードは、新坂を見ると、握手をする代わりに、彼の頬に軽くキスをした。親しい相手には、必ずそうするのが彼の流儀なのだ。新坂は、汗でべったりと濡《ぬ》れた、クロードの躰を避けるようにして「急いでいるんだ」と小声で言った。  クロードは楽屋の横にある事務所に新坂を通した。 「電話で、興味深いブツ、って言っていたが、一体何だい」  クロードは、バスタオルで顔の汗を拭《ぬぐ》いながら訊《き》いた。新坂は、黙って、五百フランの賭け札をテーブルの上に投げた。  バスタオルの動きが止まった。クロードは賭け札を持ち上げた。 「これと同額の賭け札、二万枚、それに五百ドルのものを二千枚、買ってもらいたい」 「なんだって! じゃ、一千万フランと百万ドルの賭け札を、あんたは持ってるっていうのか?」 「ああ」 「盗んだのか」 「故買屋は盗みはやらん」 「そうじゃなくて、誰かが盗んだのかという意味だ」 「いや、まったく本物と同じ、贋物《にせもの》だ」  クロードは、賭け札を弄《もてあそ》びながら、顔を歪《ゆが》めた。 「賭け札の偽造は、贋札を作るくらい難しいって話じゃねえか。こんなの使ったら、いっぺんに捕まっちまうよ」 「もし、ちゃんと使用できたら、買う気はあるか?」 「なぜ、俺んとこに持ち込んできた?」 「組織の連中に捌《さば》くよりも、あんたの方が足がつきにくい。あんたは、ここの劇団員や、他のキャバレーの女、それにブルーボーイを使って捌けるだろ?」 「で、一枚幾らなんだ」 「金の話は後にしよう。それより、興味があるかないかだけ教えてくれ」 「まともに使えりゃ、おおいに興味はあるぜ」 「じゃ、さっそく、実験してみようじゃないか」 「どこで実験するんだ」 「これは、トゥルーヴィルのカジノの賭け札だ。俺がこれを使って両替する。あんたは、俺と関係のない客を装って、ただ見ていればいい。うまく行ったら、値段の話をしよう」 「今からは困るよ。次のステージがある」 「代わりを探せ。どうせ客はあんたの顔なんか見ていないんだから」 「俺の顔は見ていないが、俺のアレを見たがる客もいるんだ」クロードは、品のない笑いを口許《くちもと》に浮かべた。「しかし……まあ、いいだろう。新米がデビューしたがってるから、そいつに後のステージは任せよう」  午後四時半過ぎ。新坂とクロードは、お互い自分の車で、パリから車で二時間ほど離れた海べりの街、トゥルーヴィルに向かった。  澄み切った青空。トゥルーヴィルも、橋を隔てた隣町、ドーヴィルも夏の終わりを楽しむ人達で賑《にぎ》わっていた。  シランスも、このノルマンディーのカジノに来ているはずだ。ひょっとして、奴に会うかもしれない。  午後七時すぎ。新坂とクロードは、見知らぬ関係を装って、漁港の並びにあるカジノに入った。  ルーレット台が三台。それに、ブラック・ジャックの台が二台しかない小さなカジノ。時間が早いせいか、まだ客の姿はまばらだった。  本当に、賭事《かけごと》をやっていることにはならないが、チップをルーレット台に置くのは、十何年ぶりのことである。新坂は掌が汗ばんでいるのに気づいた。  まず本物のチップで黒に賭け続けた。クロードは赤に張った。黒がよく出た。チップを置くと新坂は、隣の台に行き、そこにもチップを置いた。そうやって、同じ台で勝負をするのを避けた。  一時間ほどの、時が流れた。蝶ネクタイを締めた老紳士が若い女を連れて、集まり始めた。  クロードはブラック・ジャックの台にへばりついていた。上唇を突き出し、不機嫌な顔をしている。だいぶ負けがこんでいるらしい。  目があった。新坂は合図を送った。クロードはしぶしぶ、情けない量に減ったチップを持って席を離れた。  新坂は辺りを見回し、一番、混み合っているルーレット台に行き、偽造賭け札を出した。 「崩してくれ」新坂は従業員に言った。  本物と同じ。そう太鼓判を押されていても、やはり、緊張した。従業員の動きをじっと盗み見る。疑っている様子はなかった。ほどなく、百フランの賭け札三枚と五十フランが二枚、そして、十フランのチップが出てきた。 「さあ、張って下さい」ホールに声が飛ぶ。  新坂は黒の10に百フラン張った。 「もうお終いです」その声と同時に、球が回り始めた。  新坂は球の行方《ゆくえ》など見てはいなかった。  球の回る音が消えた。 「黒の10」  新坂は三千六百フラン稼いだ。 「皆さんに」新坂は百フランのチップを胴元の方にすべらせた。 「ツイてるじゃないか」後ろで声がした。  クロードでも、シランスでもないのははっきりしていた。男は日本語で声をかけてきたのだ。 「圭さん……」新坂の頬がゆるんだ。  落合圭一は、以前に比べると、顔が、ずいぶん丸くなり、まだ、四十そこそこのはずなのに、こめかみには、白いものが少し混じっていた。  十三年振りの再会。あのモンパルナスのモグリのカジノに一緒に行った時以来、彼とは会っていないのだ。 「俺がいると、お前は必ず勝つらしいな」 「だが、その後は惨憺《さんたん》たるものだった。あんたは、福の神なのか悪魔なのか分からんよ。ところで、今もボルドーにいるのか?」 「いや、女房と離婚してな……。半年ほど前から、パリに戻ってる……。俺は、今から一勝負やるが、その後で一杯やらないか?」 「俺は、もう引き上げるところだ。だが、地下のバーにいる。終わったら来ないかい?」 「そうするよ」  落合は、赤の3の周りをチップで固めた。昔と同じやり方だった。  新坂は、偽造賭け札を混ぜた、すべての賭け札とチップを、キャッシャーに出した。賭け札には細工が施されているらしい。女は、一枚一枚、カウンターの外からは見えない装置に賭け札を通していた。  女の表情には、まったく変化は現れなかった。五千フラン程のキャッシュを手にした新坂は、カジノを出た。  クロードとは、そのカジノの地下のバーで会うことになっていた。十五分ほどして、クロードが現れた。 「賭け札に細工がしてあったが、見事パスしたな」クロードの目は爛々《らんらん》と輝いていた。 「贋物《にせもの》と言っても�本物�なんだから、当たり前だ」 「どこから手に入れた?」 「それは話せん。それより、買う気になったか?」 「すべて、このカジノの賭け札なのか?」 「いや、ニースやモンテカルロの分も含めて一千万フラン分。それにドルの方は、お前の兄貴と結託すれば何とか捌《さば》けるだろう?」 「値段は?」 「フランの方は、一枚二百フラン。しめて四百万フラン。ドルの方は、一枚二百ドル。しめて四十万ドル。すべてフランで支払ってもらいたい」 「高い。そりゃ高いぜ。こっちだって人を雇って捌かなきゃならないんだぜ。それに、ドルの方は、兄貴と相談してみなきゃ即答はできねえよ」 「じゃ、まず、フランの賭け札だけでも買い取ってくれ」 「一枚、百五十フランで手を打とう」 「これまで、俺が値引きをしたことがあるか、クロード」 「だから、そこをまげて頼んでるんじゃねえか」  新坂は首を横に振った。 「経費は二十万フラン程度みておけばいいだろう。とすれば、あんたの手元には五百八十万入ることになる。悪い話じゃなかろう? それに、これからも、同じように、あんたにブツを回す」 「ブツはいつ手に入る」 「いつでも」  クロードは、横に大きく開いた鼻をさわりながら、考えこんだ。 「よし。まずフランの方は買うぜ」 「ドルの方の返事は、いつ?」 「すぐに、あんたに連絡を入れるよ」  生返事。クロードの目はカウンターの前に座っている女に注がれていた。  金目当てに、男を漁《あさ》りにきた女がふたり、脚を組み股《もも》を見せて、男を誘っている。 「さっき、俺は二千やられちまったんだぜ」 「それが、どうした?」新坂はとぼけた。 「あんたのデモンストレーションを見るために、俺はここに来た。あんたの客だろう、俺は」  四百万フランをすぐに用意できる男は、さすがにしっかりしていた。  新坂はポケットから裸の札を出し、テーブルの上に置いた。 「話がまとまった前祝いに、あの女たちと楽しもうぜ」 「あんたひとりでやってくれ。俺は、さっきカジノであった日本人と、ここで待ち合わせているんだ」 「�彫像《スタチユ》�は、相変わらず、お堅いな」クロードは小馬鹿にしたような顔をして笑った。そして、席を離れるとカウンターに行き、ふたりの女の肩を、二十年来の友達に再会した時のような感じでさわった。クロードが何か言った。女たちが笑った。なかば、クロードは目的を達したようだ。右側にいた女が、クロードを真中のスツールに座らせるために、席を譲った。  落合は、案外早く、バーに現れた。 「今夜は、まったくツカない。赤だと思うと黒が出るし、黒だと思うと赤だ……」旧友は、そう言って、ビールを一気に飲みほした。 「しかし、奇遇だな。こんなところで会うなんて。もうとっくに日本に引き上げ、音楽教室の先生でもやってるかと思ったよ。ずっとパリにいたのか?」 「いや、いろいろと回った挙げ句、また舞い戻ったんだ。日本には帰ってないけどな」 「で、今は何やってるんだ?」 「女房と一緒に小さな家電の輸入会社をやっている。日本の無名の会社のラジカセやCDなんかを売ってるんだ」 「結婚し、商売をやってるのか、出世したな」 「今にも潰《つぶ》れそうな会社だよ。ところで、圭さんの方は……」 「今夜のバクチみたいにツイてない。相手はユダヤ系のフランス人だったろう。父親がユダヤ教徒ではない俺に、冷たくてな」 「仕事はどうした?」 「離婚と同時に辞めた。しかたないから、三年ほど、アルジェリアの石油プラントの現場で通訳として働いていたんだ。今は、休養の時期さ」  落合の日焼けした横顔。サハラ砂漠の過酷な太陽で焼かれたのかもしれない。プラント会社の通訳は金になり、給料がそっくりそのまま残ると聞いている。落合は金に不自由はしていないらしい。 「お前、今年で三十四か」落合が言った。「まだ若いな。俺なんか四十だぜ。この歳になったら、もう日本には帰れない。昔、中年のパリゴロを見て、哀れだな、なんてひとごとみたいに思っていたが、知らない間に俺も……」 「圭さん、愚痴っぽくなったな、しばらく会わないうちに」 「久し振りに、お前の顔を見たら、つい後ろ向きになっちまったよ」  落合は、目尻《めじり》に皺《しわ》をよせ、弱々しく笑った。  後ろ向きになる。新坂は、意地でもそういう言葉は口にしたくなかった。過去も将来も、意識の中から追い出してしまった新坂である。彼にとって、後ろ向きになることは、同時に将来のことを考えることでもあるのだ。  堅く閉ざした心の中に、どっと過去のことや未来のことが、雪崩《なだれ》のように押し寄せてくることを、彼は怖がっていた。そうなった時、自分は警察に捕まる。新坂はそう予感していたのだ。  新坂の脳裏に、トラヴィアータの姿が浮かんだ。彼女の存在は危険なのだ。あの女は、このまま行けば、新坂に未来という時間を意識させるだろう。トラヴィアータとの関係がうまく行って、怖いのは�ピガールのドン・ジュアン�の復讐《ふくしゆう》などではないのだ。 「噂《うわさ》じゃ、お前……」ビールからウイスキーに切り換えた落合が、再び口を開いた。「あのモンパルナスのモグリのカジノで、えらい借金を作ったんだってな」 「ああ。一晩で、七万フランの借金を作った。二十一の俺にとっては、どうにもならん金だったよ」 「よく返せたな」 「いくらすごい金額でも、首をくくらなきゃならない借金じゃなかったからな」 「それでも、懲りずにバクチをやってるのか?」  新坂は、苦笑し煙草に火をつけた。 「圭さんも、相変わらずカジノをうろうろしてるらしいな」 「これだけは止められんよ。パリに戻って、一番、寂しいのは、市内にルーレット場がないことだ。あのモンパルナスのカジノも、知らない間に潰《つぶ》れていたしな……」 「俺は、一軒、知ってる。よかったら、紹介するよ」 「本当か!」落合の目が輝いた。「是非、紹介してくれよ」  新坂は、自分の住所と電話番号を書いた紙を落合に渡した。落合もパリの住所をくれた。 「パリで、何かやる計画があるのか、圭さん」 「まあな。アルジェリアで溜《た》めた金で、レストランでもやろうかって、友達と話しているんだが、少し資金の方が足りなくてな」落合は、昔のように穏やかに笑ったが、急にがらりと調子を変え、「今から、ドーヴィルのカジノに回ってみないか? ツキが変わるかもしれないから」 「俺はやらないが、付き合うよ」  ドーヴィルのカジノでも、落合は勝てなかった。新坂は、落合にいくら勧められても、決して賭けなかった。  シランスを探した。だが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。     9  数日があっと言う間に流れた。クロードとは、三日後に取引することに決まった。  アメリカにいるクロードの兄貴は、弟から持ち込まれた話に即座に乗り、ドルの賭け札も捌《さば》ける目処《めど》がついた。  その間、新坂はトラヴィアータの館には顔を出さなかった。  カジノでトラヴィアータの顔を見れば、どんどん、心の壁が崩れて行くような気がしたのだ。  しかし、トラヴィアータの館に顔を出さなければならない時がきた。�ピガールのドン・ジュアン�から呼び出しがあったのだ。  新坂は、いい機会だから、落合に電話を入れ、カジノに行かないかと誘った。  午後八時すぎ、新坂は落合を連れて、トラヴィアータの館に入った。新坂の紹介。執事は、落合をすんなり遊戯場に通した。 �ピガールのドン・ジュアン�は、新坂を書斎に通し、クロードとの取引のことを詳しく訊《き》いた。何の問題もないことを知った�ピガールのドン・ジュアン�は、満足げに目を細め、新坂と組んだことを、改めて喜んだ。  話がすむと、ふたりは例によって遊戯室に行った。落合は、ルーレット台に向かっていた。 「調子はどうだ?」 「まあまあだ」  新坂は、辺りを見回した。トラヴィアータもシランスも、ルーレット室にはいなかった。落合と別れた新坂は、バカラとブラック・ジャックの部屋をのぞき、それから麻雀室に入った。  トラヴィアータとシランスは、黄金の雀卓に向かい合って座っていた。新坂はシランスの後ろの席についた。  トラヴィアータが、一瞬、新坂の顔を見た。 「どうなさっていらっしゃったの。しばらく、お見えになりませんでしたわね」 「ちょっといそがしくてね」そう答えて、シランスの手に目をやった。 「俺も、トゥルーヴィルのカジノに行ったんだが、会わなかったな」新坂はシランスにしゃべりかけた。 「私は、ドーヴィルにずっといたよ」シランスは、無愛想に答えながら、牌《パイ》を引いた。  シランスの手は、万子《マンズ》の清一色《チンイツ》の一向聴《イーシヤンテン》。シランスの右隣に座っていた紳士がリーチをかけた。  シランスは一筒《イーピン》をツモった。リーチをかけた男の捨て牌には、四筒《スーピン》が切れていた。場には一枚も一筒は切れていない。いかにも引っ掛け臭い。  だが、新坂なら、手に惚《ほ》れて勝負に行っただろう。だが、シランスは安全牌の五万《ウーマン》を切った。そして、次のツモで、三筒を引き、通っていない七索《チーソウ》を切った。一通《いつつう》ドラ一で、上がれる手だ。三筒は、場に三枚切れている。ラストチャンスだ、二筒《リヤンピン》は出やすい牌だ。  次にシランスは、一筒をまたツモった。躊躇《ちゆうちよ》なく三筒を打ち出し、三、六、九万、一筒の変則四面チャンになった。ダマで上がるためには一筒か九万でなければならない。トラヴィアータが二筒を打った。新坂は心の中でにやっと笑った。  一筒を打っていれば、あの二筒でシランスは上がれたはずなのに。シランスは北《ペー》をツモ切りした。リーチをかけていた紳士が、九万を捨てた。シランスは静かにロンと言い、五千二百点を上がった。  それでトップがひっくり返った。一筒は通ったかもしれない。だが、トラヴィアータの二筒で上がっていたら、シランスのトップはなかった。  トップをひっくり返された男が抜けた。ひとり足りない。 「麻雀のよくないところは、まだまだフランスでやる人間が少ない、ということですよ」  毎晩のようにここに来ている若禿《わかは》げが言った。 「�彫像《スタチユ》�入る?」トラヴィアータが誘った。 「俺は、やらないが、俺の友達ならやるかもしれない」 「あら、お友達を連れて来ていたの?」 「古い友人でね、偶然、再会したんだ」  新坂は落合を探しに行った。  落合は、金の麻雀卓を見て、目を丸くした。彼が、椅子《いす》に座った時、�ピガールのドン・ジュアン�が現れた。トラヴィアータは、黙って、ボスに席を譲った。  すぐに、彼女の後を追いたい。心が逸《はや》った。だが、�ピガールのドン・ジュアン�に心のうちを見抜かれるような気がして、しばし、麻雀を見ていた。  落合は、なかなかうまい麻雀を打った。アルジェリアの現場で、日本人の職人とやって鍛えられたのかもしれない。しかし、シランスの強さは群を抜いていた。全部、彼が上がりはしないが、当たり牌をふらないのである。点棒を支払う時は、敵がツモった時だけなのだ。  半チャンが終わる前に、新坂は腰を上げた。トラヴィアータがどこにいるのか気になったのだ。 「帰るのかね」�ピガールのドン・ジュアン�が微笑みながら訊いた。  新坂は、一瞬、口ごもった。 「い、いえ。ちょっと他のゲームを見物しようと思いまして」 「そうか、ゆっくり愉《たの》しんでくれたまえ」  トラヴィアータは、ルーレット室で、女の客と話をしていた。ちらっと新坂を見たが、彼の方に来る素振りはまったく見せなかった。バーに行き、彼女が来るのを期待した。しかし、トラヴィアータは現れなかった。  俺を避けている……。新坂はそう心の中でつぶやき、グラスを空けた。 「なーんだ、ここにいたのか。帰ったかと思ったぜ」落合がバーに入って来た。 「勝ったかい?」 「九百フランばかりな。しかし、あのシランスって鉄仮面みたいな野郎は何者だい?」 「俺から七万フランを巻き上げた張本人さ」 「そうか……。お前はあいつに負けて……」 「麻雀は、死んでることのできるゲームだから、何とかしのぐことはできる。だが、あいつとはバカラの大勝負は、やらないことだ。サシで勝負をしたら、必ず負ける」 「店と組んでいるんじゃないのか?」 「そういう疑いを持ちたくなるのは分かるが、そうじゃない。奴は神がかり的に強いんだ。昔、あいつはこう言った。�君が賭事に負けるのは人生がありすぎるからだ�とね。ということは、シランスには人生がないことになる」 「ありきたりの言葉じゃないか、そんなの」 「まあな。守るものがない人間は、何事にも動じない。奴の言葉はそのように取れる。しかし、シランスに言われると、何かもっと深い感じがするんだ」 「安っぽい言葉にも、魔力があるってことか。まったく謎《なぞ》めいた野郎だな」 「不思議な奴だよ、シランスは」 「お前、親しいのか?」 「いや、それほどでもない」 「一度、バカラで勝負してみたいな」 「よしなよ。せっかくアルジェリアまで行って溜《た》めた金がなくなっちまうぜ」 「シランスなんて渾名《あだな》だろう。本名はなんて言うんだい?」 「知らない。どこから来て、これまで何をやっていたのかも不明だ。生まれつき、ギャンブルしかやってこなかった。そうとしか思えない男だよ。この間も、奴は或る不動産屋と異例なサシの勝負をし、七十万フランを巻き上げた。一度も負けずにな」 「七十万フランか……」  落合の目がきらっと光った。 「さあ、帰ろう」新坂は煙草を消し、立ち上がった。 「いや、俺は残る」 「圭さん……」  新坂は途中で口ごもった。落合はシランスと勝負をしたがっているらしい。昔は、安全な賭《か》け方しかしなかったのだが……。四十で無職。落合は焦っているのかもしれない。  午後十一時少し前、新坂はアパートの前に車を停めた。いつになく荒っぽい手付きで、ドアを閉めた。  二重鍵を開け、部屋に入った。居間の電気をつけた。  思わず、息をのんだ。  ツェリンスキー。奴の手にはマニューリンが握られていた。  新坂は左右に目をやった。奴の部下が隠れているかもしれない。しかし、そんな気配はまるでなかった。  ツェリンスキーはひとりで、ここにやって来たのだ。  口をへの字に曲げ、ぐっと顎を引き、眼光鋭く新坂を睨んでいた。様子がおかしい。新坂を厳しく追及した時にも見られなかった殺気だった雰囲気が全身からにじみ出ていた。 「お供はどうした?」  新坂は一歩前に、足を運んだ。 「動くな」  撃鉄が起こされる音が聞こえた。 「血迷ったのか、あんた」  眉の目立たない異様な顔が歪《ゆが》んだ。  何がどうなっているのか、新坂にはさっぱり分からなかった。 「令状はあるのか」 「そんなものは必要ない。俺は個人的にお前に会いに来たんだ」 「じゃ、外で待つのが礼儀ってもんだろう」 「管理人に頼んだら入れてくれた」 「身分証をちらつかせて、頼んだってわけか。それで、俺に何の用だ?」 「お前は、卑怯者《ひきようもの》だ」ツェリンスキーがピンク色の唇を曲げ、吐き捨てるように言った。 「あんたのしつこさを、俺は、ずっと前から異常だと思っていたが、やはり、頭がイカれてるんだな、あんたは」 「俺は正常だよ」 「じゃ、なぜ、あんたは、俺に付きまとう。俺がたとえ、あんたの思っている通り、故買屋だとしても、そんなケチな犯罪者をどうしてこんなにしつこく追っ掛けるんだ」 「上司にも、同じことを言われたぜ、今朝」 「で、なんて、あんたは答えたんだ?」 「お前は、これまで俺がぶちこんだ故買屋とは、まるで雰囲気が違う」 「それは、俺が故買屋じゃないからだよ」 「うるさい! お前が盗品を捌《さば》いてるのは分かってる。今さら、シラばくれることはない。俺はお前を、重要参考人として二度引っ張った。お前を殴ったり蹴ったりもした。だが、お前は表情ひとつ変えずに、沈黙を守った。何十時間たっても、同じことしか言わない。まるで、特別教育を受けたスパイみたいにだ。そして、普段は、地味な暮らしをしている。女とイチャつくわけでもないし、特定の友人を作ることもせず、お前のバカンスと言えば、バーデンバーデンに行って、爺《じじ》いや婆《ばば》あと一緒に温泉につかることだけだ。こんな犯罪者に、俺は一度も会ったことがない。単なる故買屋が、なぜ、大義のために犯罪を犯した連中のように振る舞うのか、俺は興味があるんだ。そして、いつか、お前のそのポーカー・フェイスに、感情が現れるのを、俺は見たいと思っていたんだ」 「これからも、そうなるように努力すればいい。俺は止めない」 「卑怯者」ツェリンスキーが低くうめいた。 「なぜ、俺が卑怯なんだ」 「お前、警察に手を回したな」 「俺が警察に? 何を言ってるんだ」 「今朝、俺は上司から、お前に関する捜査から外すと言われた。そして、後任も決まっていない。事実上、お前の捜査は打ち切りになったのと同じだよ」  新坂は黙りこくった。奴の言っているのは本当のことなのだろうか。それとも罠《わな》なのか。判断がつかない。 「座っていいかな、ツェリンスキー」  警視は、大きくうなずいた。 「俺に、警察の上司を動かす力がある、と思うか」 「ない、と思っていた。しかし、現実に上からそう言われたんだ。�彫像《スタチユ》�、どんな手を使ったか知らんが、お前がそんな汚い手を使うとは考えもしなかった」 「あんた、俺が汚い奴だから、必死でムショにぶち込もうとしているんじゃないのか」 「犯罪者だから、お前を捕まえるんだ。汚い野郎と犯罪者は、似て非なるものさ」  新坂は、プラチナ・ブロンドの警視を見つめた。案外、奴の言っていることは本当なのかもしれない。 「で、俺の捜査を中止しなきゃならない理由を、あんたは知ってるのか?」 「知らん。そんなことお前の方がよく知ってるはずだ」  新坂は煙草を取ろうと上着に手を入れた。ツェリンスキーの銃がピクリと動いた。 「俺が、武器を持ち歩いていないのは、よく知ってるだろう。もうその銃はしまったらどうだ」  新坂は煙草を取り出し火をつけた。ツェリンスキーは少し興奮から醒《さ》めたのか、おとなしく新坂に言われた通りにした。 「警察に目をつけられなくなるのは、気分がいい。だが、俺が手を回したわけでもないのに、捜査が中止されたのは、気持ちが悪い」 「とぼけるのもいい加減にしろ、�彫像《スタチユ》�。お前は、一体、何者なんだ。ただの故買屋じゃないんだろう。そうでなければ、警察を動かすことなんかできはしないからな」  俺はただの故買屋だよ。思わず、口をついてそう答えそうになった。 「ツェリンスキー、俺から頼みがある。誰が何の理由で警察に圧力をかけたのか調べてくれないか」 「お前は、本当に知らんのか?」半信半疑。ツェリンスキーはプラチナ・ブロンドの眉をひそめた。  新坂は、首を横に振った。  しかし、おかしな話だ。偽造賭け札の売買が、今のところ一番、大きく関わっている仕事だが、�ピガールのドン・ジュアン�でも、鼻薬を利かせられるのは、せいぜい風紀係の警視ぐらいまでだろう。  新坂ははっとした。トラヴィアータを誘拐しようとした人間は、ギャングらしくなかった。ひょっとして、この間のあの事件と関連があるのではないだろうか。それに、シランスの行動もおかしい……。  ツェリンスキーがいきなり、白く太い腕をつき出し、新坂の胸ぐらをつかんだ。 「きさまが、嘘《うそ》をついていたら、ただじゃすまさんからな。俺は、お前を生涯追っかけてやる。覚悟をしておけ」  ツェリンスキーは、そう言い残すと、戸口に向かった。ドアの横に置いてあった観葉植物の鉢を、思い切り引き倒した。ドスンという音と共に、ドアが閉まった。     10  翌日の夜遅く、新坂はトラヴィアータの館に顔を出した。  廊下で、カルロスと一緒の�ピガールのドン・ジュアン�に出くわした。 「どうした、友人が心配になり、やって来たのかね?」 「え!」 「昨日、君が連れて来た友人が、シランスとサシの勝負をするらしい。わしも見物したいが、用があって出かけなきゃならんのだ」  新坂は舌打ちし、バカラ・ルームに飛びこんだ。  落合とシランスが、この間のシャリーとシランスの勝負の時と同じ位置に座っていた。他のプレーヤーは、ひとりも席についていなかった。 「あなたのお友達、五十万フランをすりたいそうよ」トラヴィアータが言った。  新坂は、ギャラリーを押し分け、落合の横に立った。 「よう」落合がにっと笑った。「やはり、彼と勝負したくってな。賭け金はこのカジノの上限十万フランで、どちらかが先に五十万フランがなくなるまでの勝負。かなり異例なバカラだが、マダムがOKしてくれたんだよ」  新坂は、黙ってシランスを見つめた。シランスは、いつものように無表情だった。  ここで勝負を止めろとは言えない。馬鹿が! 新坂は心の中で叫んだ。  シャリーとの勝負の時と同様、シランスは親を相手に譲ったらしい。落合はシューからカードを抜き、テーブルに置いた。カード係がシランスの前にカードを運ぶ。  シランスは、もらった二枚のカードを、柔らかな手付きで捲《めく》った。ハートの2にハートの7。ナチュラル9だ。  ほう! という溜息《ためいき》がギャラリーから漏れ、哀れむような目つきが、落合に向けられた。  落合は、それを見て不敵に笑った。そして、カードを表に向け、ゆっくりと滑らせた。スペードのAにクラブの8。  これまでにない歓声が、ギャラリーからわき起こった。  二回目、シランスは三枚目のカードを要求した。クラブのジャック。点にはならない。  シランスの点は最高でも5だろう。落合のカードは、スペードの3にハートのキング。点数は3。悪くない。勝てる見込みのある点数だ。  落合は三枚目のカードが開かれるのを真剣に見つめていた。  ダイヤの8。点数は1となってしまった。落合の動揺が、後ろに立っていた新坂にも伝わって来た。  シランスの伏せられたカードは、ダイヤのクイーンにクラブの2だった。  五百フランの束が、シランスの前に移動した。  次の勝負は、あっけなくシランスがナチュラル9を出して勝ち。そして、三回目も四回目もシランスが勝った。  落合は、感情をできるだけ押さえて、最後の十万をテーブルに押し出した。だが、興奮しているのは、誰の目にも明らかだった。本当のポーカー・フェイスとポーカー・フェイスを気取ろうとしている人間では、やはり、どこかが違うのだ。  シランスは、黙ってうなずいた。  シューから引かれるカードの切れ味のよい音がホールに聞こえた。  シランスは、片手で二枚のカードを持ち、一度、上のカードと下のカードを器用に入れ換え、ちらっとカードに目を落とした。 「もう一枚」シランスが言った。  落合の手は、ダイヤのAにダイヤの2だった。  シランスの三枚目のカードは、スペードの6。  落合のこめかみが緊張のためにピクリと動いた。彼も6のカードを引くのが最高なのだ。  落合も三枚目のカードを要求した。  ハートの4。点数は7だ。勝てる可能性は大いにある。落合は、シランスのカードには目をやらず、大きく深呼吸をした。  シランスは、軽い手つきで二枚のカードを表にした。  クラブの10とクラブの3。スペードの6を加えれば9になる。  落合の顔が青ざめた。  新坂が遊戯室に入って、十分たらずで、落合は五十万フラン負けたのだ。  落合は茫然《ぼうぜん》として、シランスの方を見つめていたが、彼の目には何も映っていないようだった。  突如、落合が笑い出した。 「本当に、あんたは神がかり的に強い。どうやって、そんな強運を呼びよせることができるんだ」 「君は、この金をどこから手に入れたんだ?」 「稼いだんだよ、アルジェリアで」 「そういう金を、なぜ、バクチに使う?」 「勝った奴に説教されちゃ世話ないぜ」落合が不貞腐《ふてくさ》れたように笑った。 「私は、説教などするつもりはない。君は、本気で賭事《かけごと》にのぞんでいなかった。まるで、五十万、負けるために賭けに挑んだような気がする」  確かに、なぜ落合が、負け知らずのシランスと大勝負をやったのか、新坂も疑問だった。しかし、負けようとして五十万張ったなどというのは馬鹿げている。シランスの言うことも新坂には、さっぱり理解できなかった。 「あんたの言う通りかもしれないな」落合が煙草に火をつけながらつぶやいた。「俺は、賭事にしびれている。心の奥底じゃ、勝って高揚する気分も、負けて目の前が真っ暗になる瞬間も、同じくらいに好きなのかもしれない」 「よく分からないが、君は、私に勝つために、運を賭けていたようには見えなかった」  シランスは、そう言うと、勝った金を黒い鞄の中に入れ立ち上がった。 「一杯やらないか、シランス」落合が誘った。 「いや、今夜は、これで失礼する」  シランスは出口に向かった。トラヴィアータが、玄関口で、シランスに挨拶《あいさつ》しているのが見えた。 「また、アルジェリアに行かなきゃならなくなったんじゃないのか?」新坂が訊《き》くともなしに訊いた。 「いや、日本のアルジェリア・プラントも下火だ。昔みたいに、簡単に仕事は見つからないさ」  落合は、昔から、負けてもすっきりとした顔をして、話をする男だった。潔いのだ。しかし、それにしても、五十万フランを一瞬にすって、平気を装えるのには、新坂もいささか驚いた。  落合に、バーで一杯飲もうと誘われた。新坂は、先に行っていてくれ、と言い、執事と廊下で話していたトラヴィアータに近づいた。 「�彫像《スタチユ》�もたまには、賭事をなさったら?」カジノのマダム然とした口調で言った。 「いや、俺はやらない」  執事が遠のいて行った。 「今夜、会いたいんだが……」新坂は、小声でささやいた。 「駄目よ」トラヴィアータは、新坂に横顔を見せ、冷たく言った。 「重要な話があるんだ。ひょっとすると、君が襲われた事件と関係があるかも知れないんだ」  トラヴィアータは、一瞬、考えこんだ。「じゃ、零時に私の家に来て。でも、あの事件が……」そこまで言った時、ルーレット室の従業員が、彼女を呼んだ。客のひとりが、負けがこんで、インチキだとわめいていると言うのだ。  トラヴィアータは、新坂に「失礼」と他人行儀に言って、ルーレット室に向かった……。  十三区、ゴブラン大通りに住む落合を送り、零時一分すぎに、新坂は、トラヴィアータの家のベルを押した。  彼女は、まだ館にいた時と同じ、薄いブルーのイブニング・ドレスを着ていた。 「あなたのお友達、お金持なの?」酒の用意をしながら、トラヴィアータが訊いた。 「いいや」 「じゃ、これから大変でしょう。あんな大金をいっぺんになくしたんじゃ」 「借金した金をすったわけじゃないから、何とかなるだろう」  コニャックのボトルとグラスをテーブルに置いたトラヴィアータは、新坂の前に腰を下ろし、脚を組んだ。 「あれ以来、妙な奴等は来ないか?」 「ええ。でも用心してる。裏の窓にはすべて、格子を入れてもらったわ」 「本当に、奴等に心当たりはないのか?」 「ないわよ」トラヴィアータが短く笑った。「それで、私に話があるってことだったけど……」 「俺にしつこく、つきまとってる警視がいるんだが、そいつが昨日の夜、俺のところに来た……」新坂はツェリンスキーとの一件を話した。「……誰が何の目的で、警察に圧力をかけたかだが、ひょっとすると、あんたを攫《さら》おうとした奴等に関係があるんじゃないかと思ったんだ」 「それは、考えすぎじゃないかしら。ギャングのボスの女を拉致《らち》しようとした連中と、あなたとはまるで関係がないでしょう」 「俺自身には、まったく心当たりがない。となると、俺の周りの人間に関係があることになる。フェルナン、シランス、落合、そして、あんたぐらいしか、最近、頻繁に付き合っている人間はいない。だから、それほど考えすぎとも思えない」 「本当に、あなたに心当たりはないの」 「ないね。一介の故買屋を、警察が泳がせておく理由なんかないさ。俺が武器商人とかウランの密輸人とかいうなら、分かるがね」 「フェルナンが狙《ねら》われているんだわ、おそらく。売春、麻薬、窃盗……おそらく、殺人にも加担しているはずよ、フェルナンは。しかし、これまで、脱税以外では挙げられていない。きっと、警察はフェルナンに集中攻撃をかけ、一気に逮捕に追い込もうとしているんじゃないかしら。そんな時に、警察が、あなたの周りをうろうろしたんじゃ、大物に逃げられてしまう。だから、その警視をあなたの捜査から外し、あなたにつきまとうのを止めさせたのよ」 「そうかもしれない。しかし、何となくだが、割り切れないんだ」新坂は、グラスを揺らしながらつぶやいた。 「偽造賭け札の買い手が見つかったんですってね」 「まあね」 「隠さなくてもいいわよ。フェルナンは全部、私に話してるもの」 「あんたらは、いつ会ってるんだ?」 「彼は午後、必ず、ここで過ごすの。カジノが始まるまでの時間をね。私とフェルナンの付き合いは、女房公認なのよ。ただ条件があってね。夜は、本宅ですごすこと」 「あんたとフェルナンの付き合いは、もう長いのか?」 「三年になるかしら」 「その前、あんたは何を……」 「過去の話はよしましょう。懐かしく思い出せる過去をあなたは持ってるの?」  新坂は弱々しく笑って、首を横に振った。 「でも、あんたのことは知りたい。どんな、惨めな過去でもね」  トラヴィアータはじっと新坂を見つめた。 「惨めな過去なら、私、いくらでも持ってるし、それを人に話したことも、何度もあるわ」 「俺も聞きたい」 「聞く必要はないわ。全部、作り話なんだから。私の本当の過去はね、どんな作り話でも入る過去なのよ」 「どんな作り話でも入る過去?」 「私の話は、もう止めて。それより�彫像《スタチユ》�、あなたの話を聞かせて」  新坂は音楽学校に通っていたことから、シランスとの勝負に負け、その借金のせいで、闇《やみ》のパリで生きるようになったことまでを話した。誰にも話していなかったことを急に話すと、なぜか他人のことを話しているような気分になった。  トラヴィアータは、興味深げに、新坂の話を聞いていた。 「……そうなの。シランスとは妙な因縁があるのね」 「あいつは、不思議な奴だ。俺が賭事を、もう一度やることがあるとしたら、やはり、あいつとやりたい」 「あなたもお友達みたいに大負けするわよ」 「奴の強さの秘密を知ることができれば、勝てるかもしれない」 「彼を負かすことは誰にもできないわ」トラヴィアータが、きっぱりと言い切った。 「奴のことを、あんたは、よく知ってるらしいな」 「よくは知らないわよ、私だって。勘よ。彼は絶対に負けない、という予感がするだけ」 「シランスも、何かやらかしているような気がするんだ。俺の周りを警察がうろちょろしなくなった原因は、奴にあるのかもしれないな」 「シランスは、ミステリアスな人間だけど、それだけで、何かやらかしているとは限らないでしょう」 「ここのカジノに初めて来た帰り、俺たちはランド・ローバーに尾行された。どうやら、その車は俺じゃなくて奴を尾行していたような気がするんだ」 「その話は、私も知ってるわ。この間、シランスから聞いたわ」 「奴があんたに話した?」 「そうよ。シランスは、このカジノの人間が後をつけたんじゃないかと疑っていたのよ。モグリのカジノで馬鹿勝ちすると、後が怖いことってよくあるでしょう」 「それで、奴等の正体は分かったのか?」 「十三区にあるチャイナ・タウンの博打場の連中だったらしいわ。前の晩、そこで、シランスは大きく勝った。それで、チャイナ・シンジケートの連中に目をつけられたのよ。二度と来るなって、シランスは脅かされたらしいわ」  トラヴィアータとシランス。案外、深い付き合いをしているのかもしれない。軽い嫉妬心が、新坂の心にわいた。 「お話っていうのは、それだけ?」  新坂はうなずいた。 「それじゃ、そろそろ、私……」  新坂は、トラヴィアータを見つめ、つぶやくように言った。 「俺は、トラヴィアータというルーレット台にチップを置いてしまったような気がする」 「勝手に賭けられては迷惑よ。今の関係でいいのよ。それ以上はお互いのためにならないわ」 「フェルナンのことなど、俺は気にならない。きちんと話をつけてやる」 「私の気持ちを無視してるわ、�彫像《スタチユ》�」 「じゃ、フェルナンと一緒にいたいというのか」 「この間も言ったでしょう。私はこの暮らしを捨てないと」 「新しい世界を俺が見せてやる」 「私に、アルフレッドは必要ないわ」  アルフレッドと言われて、一瞬、新坂は分からなかったが、すぐに思い出した。  オペラ『ラ・トラヴィアータ』の中で、娼婦《しようふ》、ヴィオレッタに恋をする純情な青年の名前なのだ。  新坂は笑った。 「俺はあんたに、ガキ扱いされてるらしいな」 「そうじゃない、�彫像《スタチユ》�。でも、私のことは諦《あきら》めて。あなたには、ちゃんと奥さんがいるんだし……」 「俺の結婚は、偽装だ。フランス滞在を確保するためのな」  新坂は立ち上がった。短く別れの挨拶《あいさつ》をすると戸口に向かった。 「�彫像《スタチユ》�……」トラヴィアータの声が背中に聞こえた。  だが、新坂は振り向かなかった。     11  荷を引き取る日が来た。  午後四時、新坂は、トロカデロ広場に車を止め、徒歩でイエナ橋まで歩いた。  朝から小雨がぱらつき、急に秋を迎えたような曇天が拡《ひろ》がっていた。  ツェリンスキーの言った通り、警察が見張っているような様子はない。  橋の袂《たもと》の階段を降り、セーヌ河岸に降りた。そこは、パッシー港と呼ばれている、川船が停泊する場所である。  新坂は、傘をすぼめ、�メリュジーヌ�と書かれた船に乗り込んだ。  この船の半分を、新坂は借り切り、盗品の倉庫として利用しているのだ。  持ち主は、ジャック・ラカサンという、海洋学を大学で教えていた元教授である。彼が職を失ったのは、麻薬に手を出したからだ。海にいる時以外は単なる気の弱い老人で、面白半分に、麻薬をやったのが運のツキ。泥沼にはまって、すべてをなくしてしまった。残った物は、ボロボロの川船と一匹の猫だけ。その猫も去年、老衰で死に、ジャックは、まったくひとりぼっちになってしまった。新坂とは、彼が麻薬の運び屋をやっていた時からの付き合いなのだ。 「�彫像《スタチユ》�……」ジャックは、新坂を両手を拡げて迎えた。  日焼けした顔。白い髭《ひげ》が頬《ほお》を被《おお》っている。皮膚は緩み、瞼《まぶた》は黒い目に覆い被《かぶ》さっていた。  新坂の声を聞いて、ピエロがキャビンから出て来た。 「この間は、上出来だったな」 「まあな」ピエロは照れ臭そうに笑った。  新坂は、この日、ジャックに船を出してくれ、とあらかじめ電話で頼んでおいた。  ブツを船で陸まで運び、そこでトラックに荷を移すよりも、新坂の�隠し倉庫�がそのまま、移動した方が、安全だと踏んだ。ただし、難点は、やっと十ノット出るか出ないかのボロ船だから、時間は陸にいったん揚げるよりも、数倍かかることだ。それにセーヌ川は大きく右に左に蛇行しているので、距離も三倍以上あるのだ。 「目的地はどこだね」ジャックが訊いた。 「エルブレ島の少し先まで行ってくれ」 「そんなところで何をするんだね」 「話は後だ。さっそく船を出してくれ」  ジャックはエンジンをかけ、錨《いかり》を上げた。ピエロがトモヅナを解いた。  重いエンジン音が、小雨の降るセーヌ川に響き渡った。雨は好都合だった。イエナ橋の欄干から、川船の出発を見物している人間はひとりもいなかった。  舵《かじ》を取るのは、むろん、ジャックである。ヤクに冒されていたとは想像もつかないほど、ジャックの動きはきびきびしていた。  人生の旅路をとっくに下りてしまった爺《じい》さんの楽しみは、セーヌ川のクルージングだけなのだ。 「セーヌ川には、あまり知られていない、素敵な島が、たくさんある」ジャックは楽しそうに言った。「ピクニックに最適のロージュの島、廃墟《はいきよ》となっている館のあるアムール島……、暇にあかせて探索すると、実に面白い」 �メリュジーヌ�号は、ゆっくりとセーヌ川を下り始めた。雨に煙るラジオ・フランスの円形の建物をすぎ、ミラボー橋の下を通過した。  新坂は舵取りをジャックに任せて、ピエロと共にキャビンに入った。  用意してきたサンドイッチとビールで簡単に食事を取る。 「�彫像《スタチユ》�……」ピエロが低い声で言った。 「何だ?」 「いや、いいんだ」ピエロは俯《うつむ》き、持っていたビールの缶をひねり潰《つぶ》した。 「言いたいことがあるのなら言ってみろ」 「俺の取り分、少し増やしてもらえねえかな?」  ピエロが新坂に、何かを要求したのは、これが初めてのことだった。 「いくらに上げて欲しいんだ」 「ボスはあんただ。それは、あんたが決めてくれていい」 「一年たったものな、お前が俺の手伝いをするようになってから。じゃ二割上げよう。今夜の仕事から」  ピエロが、欠けた歯をちらっと見せて微笑んだ。だが、その笑みはすぐに消えた。 「それからさあ……」 「何だよ、はっきり言え」 「あんたが預ってる、俺の金、俺にそのまま渡してくれねえか」  新坂は、サンドイッチを食べるのを止め、ピエロを見つめた。 「あれは、お前の金だ。好きにしていい。だが、お前は独立するための資金として、あの金を溜《た》めていたんじゃないのか」 「そのことは、今でも変わらねえよ」 「それじゃ、なぜ、急に」 「いいから、黙って渡してくれ」ピエロは、ゴロワーズの箱を、赤いポロシャツの胸ポケットから取り出した。だが、箱は空だった。  新坂は自分の煙草を、ピエロに放り投げた。 「緊急に金がいるのなら、用立ててもいいんだぜ」 「ナナハンを買うんだ」 「なぜ……」 「なぜ、なぜってそう訊かないでくれねえか。ポリ公みたいだぜ」 「そういう言い方は止《よ》せ」新坂はピエロを睨《にら》んだ。「俺は、一年間、お前と組んで仕事をやってきた。俺がお前に質問して何が悪い」 「好きな女ができた……。すまねえ、�彫像《スタチユ》�。ここんとこ、俺、いらついてんだ」  新坂は笑った。 「好きな女ができたか」 「何かおかしいか。俺が、女を好きになって……」ピエロがむきになって言った。 「そうじゃない。ちょっと違うことを考えておかしかったんだ。それで、ナナハンと女はどうつながるんだ」 「分かるだろう。俺も、カッコいいとこ見せてえんだ」 「じゃ、相手はお前にまだなびいてないって訳か」 「そうだよ。その女はバイクが好きなんだ。日本製のナナハンに目がねえんだ」 「相手はジプシーか?」  ピエロは首を振った。 「フランス生まれのスペイン人だ。名前はマリーア」 「で、その子を乗せて、ナナハンで走りたいって訳か?」 「マリーアを追っかけてるのは、俺だけじゃないんだ。ホンダのナナハンを乗りまわしてる野郎も彼女を狙《ねら》ってる。マリーアは、俺の方を取りたいんだが、彼女、バイク狂だから、つい奴の誘いに乗っちまう」 「バイクで女を落とそうって訳か?」 「恋愛は心だなんて、説教は聞きたくないぜ。昔、TVで見た西部劇に、荒馬を乗りこなせる男に、女がイカれるシーンがあった。馬とバイクは同じだ。そして荒馬ってくりゃ、やっぱ、ナナハンだろう」  ピエロは頭がいい。新坂は、奴の言ったことにうなずくしかなかった。 「それで、お前の買いたいバイクは、いくらするんだ」 「去年の中古で掘りだし物があるんだ。ヤマハのFZ750で、三万フラン。相場じゃ三万四千はする代物なんだ」 「乗りこなせるのか?」 「何とかなるさ。俺は十五の時から400に乗っていたんだから」  ピエロには、今年の春、贋《にせ》の免許証を用意してやった。確か、その免許証で、ナナハンにも乗れるはずだ。しかし、本当の歳は十六。ナナハンに乗る面はしていない。 「よし、俺がそのバイクを買ってやる」新坂が言った。 「いや、そんな迷惑はかけたくねえ」 「買ってやる。だから、溜《た》めた金には手をつけるな」 「本当にいいのか?」 「ただし、条件がひとつある。名義は俺……いや、ジャックにしよう」 「どうして、俺の名義じゃ駄目なんだ」 「お前の面は、ナナハンの持ち主って面じゃない。若すぎる。知り合いの小父《おじ》さんの物ってことにしておいた方が、無難だ。お前の身分証も免許証も贋物だってことを忘れるな。検問に引っかかったら、ジャック小父さんのだと言え。それから、仕事の時は、絶対に使うな。いつものようにソレックス(ミニ・バイク)で来るんだぞ」  ピエロがにやっと笑った。 「分かったよ」 「マリーアはいくつだ」 「十七だよ」 「年上か……」 「向こうは俺を十八だと思ってる」 「本当のことを言わなきゃならん時が来るぞ」 「分かってる。だが、そん時はそん時だ」 「その子、可愛《かわい》いか?」 「そりゃ、もう……いい女だよ」  新坂は船窓の向こうに目をやった。河岸に立つアパートの灯がちらちらと見えた。 「ところで、溜《た》めた金はどう使うつもりだ」 「まだ、よく考えてねえよ。でも、最近、ジャック爺《じい》さんみたいになりたい、なんて気がしてきてさ……」ピエロは、照れ臭そうに目を伏せた。 「海洋学をやりたいのか」 「そんな大袈裟《おおげさ》な話じゃねえ。ただ、海を船であっち行ったり、こっち行ったりするのは悪くねえ、と思っただけさ」 「海のジプシー。いいじゃないか」  新坂は、そろそろピエロを使うのを止そうかと考えた。  セーヌ川は、右に左に大きくうねっている。その流れに合わせて、�メリュジーヌ�号は、何度か蛇行を繰り返した。  目的の島までは七十キロほどある。たっぷり四時間かけて、�メリュジーヌ�号は、エルブレ島の近くまでやってきた。  新坂は、舵を取るジャックの横に立った。 「向こうに明かりが見えるだろう。あそこが目的の島だ」 「あんたの仕事に、我が�メリュジーヌ�号が船出したのは、これが初めてだな、�彫像《スタチユ》�。一体、積荷はなんだい?」 「あっと驚くものだよ」新坂は、曖昧《あいまい》に答えて、煙草に火をつけた。  船着き場に、人影が見えた。  ジャックは、何の苦もなく船を、島に寄せた。ピエロがトモヅナを島に投げた。  船着き場には、三人の男が立っていた。そのうちのひとりはフィリップだった。黒いトレーナーにジーンズ姿。雨に濡れた眼鏡が気になるらしく、しきりにトレーナーの裾《すそ》で拭《ふ》いている。  ジャックを船に残し、新坂はピエロを連れて島に下りた。 「荷はすでに梱包《こんぽう》してあるのか」新坂は挨拶《あいさつ》なしにフィリップに訊《き》いた。 「用意は整ってる。うちの連中も荷を運び出すのを手伝います」 「そうしてもらえると助かる」 「こないだ渡した賭け札、使ってみましたか」 「完璧《かんぺき》だ。あれは贋物《にせもの》とは言えないな」  フィリップの口許《くちもと》が少しゆるんだ。 「じゃ、買い手がついたんですね」 「ああ」  工場の表の部屋には、ダンボール箱がうずたかく積まれていた。  ピエロと、フィリップの仲間ふたりが、手分けして、荷を船着き場まで運んだ。 「どこに運ぶんです?」フィリップが訊いた。 「あんたには関係ない」  冷たく言って、新坂は荷運びの様子を見続けた。  最後のダンボールが運び出された。 「これで、すべてだな?」念を押す。 「ええ。今回、フェルナンに頼まれた分は、全部引き渡したことになります」  新坂は、倉庫を出た。フィリップも後ろからついて来た。 「フェルナンは、テレサのことについて何か言ってましたか?」フィリップがおずおずと訊いた。 「テレサ? ああ、あんたの女のことか。俺は、何も聞いてない」  そう答えて、新坂は、事務所になっているバンガローの方に歩き出した。 「どこへ行くんです?」 「電話を借りる。フェルナンに荷を引き取ったことを知らせなきゃならない」  フィリップが、慌てて走ってきた。 「あんたも、電話に出るか。女の件は自分で訊《き》け」 「ええ、そ、そうします」急に声が明るくなった。  電話口に出た�ピガールのドン・ジュアン�は、荷を引き取ったことを聞くと、満足げに�結構、結構�を連発した。  話のすんだ新坂は、受話器をフィリップに渡した。フィリップは何度も吃《ども》りながら、女のことについて訊いた。そして、高揚した声で、しつこく礼を言い、受語器を置いた。  荷は、すでに船の中に運びこまれていた。このまま、パッシー港に戻り、明日の早朝、クロードのトラックが引き取りに来るまで、新坂たちも、船に残っていることにした。  九時すぎ、�メリュジーヌ�号は、桟橋を離れ、鈍い動きでUターンし、帰路についた……。  パッシー港に着いたのは一時少し前だった。雨は上がったが風が強まり、�メリュジーヌ�号はゆらゆらと左右に揺れていた。  三人は、キャビンの後半部分で、夜食をとっていた。パンにチーズ。それに、ハムなどを食べながら、ワインを飲んだ。  周りを、賭け札の詰まったダンボールが囲んでいる。 「�彫像《スタチユ》�……」ジャックが口を開いた。「この船、そろそろ、売ろうかと思ってるんだ」  間接照明の光の中に、ぼんやりと浮かんだジャックの顔を、新坂はじっと見つめた。 「あんたが、船と別れる気になるとは……」 「船を売った金で、海辺に小さな家を買おうと思ってる。パリはもう疲れた。ただ、気になるのは、あんたのことだ。あんたは私に、よくしてくれた。この船を手放さずにすんだのも、あんたが税金や何か、金を援助してくれたからだ」 「俺は、この船を利用したかった。何も慈善事業をやったわけじゃない。ここを倉庫代わりに利用するのも、潮時かもしれんな。今夜の船出で、少なくとも三人の人間が俺と�メリュジーヌ�号のつながりを知ったんだからな」 「私が、この船を売ったら、あんたは、どうする」 「気にしなくてもいい。何とかアイデアをひねくり出すさ」  新坂は、笑ってそう答えたが、内心、どうしようか、と頭が痛かった。  午前三時少し前、新坂とピエロは仮眠するために、前部キャビンに消えた。  ジャックは、まだ眠れない、と言って中央キャビンに残った。  ピエロは、女のことを新坂に話したがっていたが、新坂は疲れていた。ベッドに横たわると、すぐに睡魔に襲われた……。  叫び声で目が醒《さ》めた。下段に寝ていたピエロが飛び起き、キャビンを出ようとした。その躰《からだ》が、ふっとんだ。  黒い人影が、キャビンのドアの前に立っていた。  新坂はベッドを下りようとした。 「そのまま、動くな」  男は拳銃らしきものを、新坂に向けた。新坂は、上半身を浮かせたまま、ぴたりと躰を止めた。  キャビンに電気がついた。男は、頭からすっぽりと覆面を被り、手にはサイレンサー付きのオートマチックを握っていた。  新坂はピエロに目をやった。床に仰向けに倒れていたが、意識はあった。黒い瞳《ひとみ》が賊を睨《にら》みつけていた。 「ゆっくりと下りて来い。ゆっくりとだぞ」  新坂は、賊の言葉に従った。男の前に立つ。男は、ドアから少し躰をずらした。 「出ろ! ガキもだ」  新坂が先に出た。 「ガキの命を大切にしたかったら、おとなしく言うことを聞け」 「望みはなんだ」 「あんたが、数時間前に仕入れたものだよ」  シャワールームを過ぎ、中央キャビンに入った。ソファに座っていたジャックの首筋にも、銃口が突きつけられていた。 「�彫像《スタチユ》�……」ジャックが情けない声で言った。 「しゃべるな、ジジイ!」  ジャックの緩んだ皮膚に銃口が食い込んだ。  賊は三人。 「荷揚げが終わるまでおとなしくしてくれるな」武器を持っていない小柄な男が言った。鼻にかかった甲高い声。  新坂は答えなかった。 「ふたり共、爺さんの横に座れ」  ピエロが小突かれた。ジャックに銃をつきつけていた男が、ボスの隣に立った。 「よし、さっさと作業に取り掛かれ」  ボス格の男は、そう言って、横に立っていた男から、拳銃《けんじゆう》を受け取り、構えた。  新坂はボスらしい小柄な男の目をじっと見た。茶色い目。口の利き方。物腰。それほど若い男ではなさそうだ。服装にはまったく特徴はなかった。 「いきなり、こいつ等が飛び込んできたもんだから、どうしようもなかった」ジャックが言った。  新坂は船窓から、河岸を見た。トラックが一台停まっている。ナンバーは暗くて読み取れなかった。まだ、夜は白み始めてもいないのだ。  デッキに通じるハッチは、中央キャビンと後部キャビンの間にある。梯子《はしご》を上がる足音が、新坂の耳まで届いた。 「よく、ここが分かったな」新坂が口を開いた。 「無駄口を叩《たた》くな。俺たちは、じきに引き上げる」  男と新坂の距離は、二メートル足らず。隙《すき》を見つければ、飛びかかれない距離ではない。仲間のふたりが、荷を外に運び出した時を狙《ねら》えば何とかなるかもしれない。  新坂は押し黙ったまま、トラックに積まれて行く荷物を見ていた。ふたりの仲間が、同時に河岸に下りる時は、なかなかやって来なかった。  突然、奥で物音がした。ダンボール箱を落としたような音。一瞬、男が音のした方に目をやった。  ピエロが素早く立ち上がり、男に体当たりを食らわした。止める暇などなかった。ボスがライフ・リングに躰をぶつけた。ピエロはボスの覆面を引っ張った。 「クソ、このガキ!」そう叫んで、拳銃のグリップで、ピエロの背中を殴った。  中央キャビンに向かって来る足音が聞こえた。  一か八かだ。新坂は、ソファの後ろに置いてあったウイスキーの瓶を取り、男に向かって行った。  男が新坂の動きに気づき、銃を向けた。床に転がった。と、その時、ピシュという鋭い音が響いた。 「あ!」ジャックの声。  新坂を真似て、ウイスキーの瓶を持ったジャックが、ソファにひっくり返った。首から血が勢いよく噴き出し、躰が痙攣《けいれん》を起こしたように小刻みに震えた。  中央キャビンのドアが勢いよく開いた。キャビンに飛びこんできた男がピエロに銃を向けた。 「撃つな!!」新坂が床に四つん這いになったまま、叫んだ。「ピエロ、止めるんだ」  ピエロが力を抜いた。ボスがピエロを突き飛ばした。  ボスの銃口がピエロを狙っている。 「撃たないでくれ! 何でも持って行っていい。撃つな!」新坂はもう一度、叫んだ。  ボスが顎《あご》を突き出し、ぜえぜえ言いながら、新坂に目を向けた。 「お前らは間抜けだよ。銃を持った人間に立ち向かうなんて」ピエロに逆襲された男がわめき、「もういい。お前ら作業を続けろ」と残りのふたりに命じた。  新坂は床に座ったまま、茫然《ぼうぜん》とジャックを見ていた。首から激しく血を噴き出したジャック。生きているはずはない。  三十分ほどたった。荷の積み降ろしを終えた三人の男は、�メリュジーヌ�号を下りた。  新坂は、すぐに立ち上がり、ジャックの心臓に耳を当てた。鼓動が聞こえる。一瞬、そんな気がした。しかし、それは彼の願望でしかなかった。  新坂はジャックの両手を合わせ、それに自分の手を重ね、目をつぶった。 「俺のせいだ。ジャックが死んじまったのは、俺の……」  新坂はピエロの声で我に返った。 「さあ、仕事だ、ピエロ。ジャックの死体をベッドに乗っけよう」 「俺は……」ピエロの目が涙でうるんでいた。 「もういい。お前は、最善を尽くそうとした。それでいいんだ」 「でも……」 「ジャックの足を持て。早くしろ!」  ジャックの死体を前部キャビンのベッドに寝かせた。ズボンのベルトに下がっていた鍵束を外す。そして、彼の躰《からだ》にシーツをかぶせた。  次に、キャビンの指紋を拭《ふ》き取り、皿や煙草の吸殻を処分した。足のつきそうな盗品と、船に隠しておいた拳銃三丁と弾《たま》、それにナイフを袋に詰めた。  クロードがトラックでやってくるまでには、まだだいぶある。 「ピエロ、お前が、男の覆面を引っ張った時、奴の顔は見えたか?」 「いや。眉が太かったこと、濃い口髭を生やしていたことぐらいしか分からねえ」 「もう一度、会ったら分かるか?」  ピエロは目を伏せ、弱々しく首を横に振った。  新坂はソファに座り、船が揺れるのに身を任せた。  これからどうすればいいのか、まったく見当もつかなかった。ピエロをキャビンに残し、新坂はひとりデッキに出た。  空が次第に白み出し、下部の部分がオレンジ色に染まった。船は静かに揺れていた。  クロードは六時五分前にやって来た。 「手違いがあった。取引は延期だ」  何をきかれても、新坂は、その言葉を繰り返すだけだった。     12  夕方、新坂は�ピガールのドン・ジュアン�に電話を入れ、事情を話した。  上機嫌で応対に出た�ピガールのドン・ジュアン�だったが、話を聞き終わらないうちに、抑揚のない調子で、一言こう言った。 「お前のアパートに人をやる。その男の指図に従え」  やって来たのはカルロスと、もうひとり赤茶けた髪の男だった。  新坂は、プジョー604に乗せられた。連れて行かれたのは、ピガールの路地にあるワイン・ショップだった。 「ボスは機嫌が悪い。口の利き方にせいぜい気をつけるんだな」カルロスが、締まりのない口に笑みを浮かべ、忠告した。  ワイン・ショップの地下は、酒蔵になっていた。急な階段を降りる。地下一階は本当のワイン・セラーで、棚の向こうにドアがひとつあった。  地下二階は、酒を収める棚も、温度調節の装置もない。パイプが剥《む》き出しになった矩形《くけい》の部屋だった。  部屋の中央に椅子《いす》と机があり、隅にスプリングが駄目になったソファとスタンド式の灰皿があった。奥の壁に、手枷《てかせ》が二組ぶら下がっている。 �ピガールのドン・ジュアン�はすでに、地下室にいて、苛苛した足取りで部屋を歩き回っていた。  新坂は、中央の椅子に座らされた。 「どうしてくれるんだね、�彫像《スタチユ》�」 �ピガールのドン・ジュアン�の顔には、いつもの笑顔はなかった。 「取り戻します」 「どうやって」 「誰がやったことか、突き止めるまでは方法が考えられません」 「じゃ、横から奪っていった、不届きな野郎を見つける手がかりは?」 「今のところは何も……」 「これまで、わしから物を盗んだ奴は、ひとりしかいなかった。それは誰だか知ってるか」  新坂は首を横に振った。 「税務署の役人だ。他には、一フラン玉一個、煙草一本だって、わしから物を盗んだ者はいない。この意味が分かるな。損害はお前に弁償させれば、それで済む。だが、傷ついたわしのプライドは、金では癒《いや》されん」 「必ず、やった奴を見つけ、賭け札を取り戻します」 「わしは、君が好きだ。冷静で判断力もあり、行動力もある。そんな君が、大事な仕事でドジるとはね。ことが、あの島で起こったのなら、それは何が起ころうとも、わしの責任だ。しかし、今回はわしの手を離れてから起こった」 「すべての責任は、俺にあります」 �ピガールのドン・ジュアン�は、葉巻に火をつけ、再び、歩き出した。光の部分と影になった部分を出たり入ったりしている。 「それじゃ、まず、フランの賭け札の利益、四百万フランから君の手数料、八十万フランを引いた三百二十万フランを支払ってもらおうか」 �ピガールのドン・ジュアン�が、机に両手をついて、微笑んだ。 「すぐには、無理です。俺はそんな大金を持っていない。しばらく時間を下さい」 「時間があれば、奪った奴を見つけられるのかね」 「やった奴は、俺の周りにいるか、あの島で働く連中とくっついているか、それとも、あんたの周りの人間と通じているか、だと見て間違いないでしょう。フェルナン、あんたはこの件に関して、誰か知り合いに話しましたか?」 「ここにいるカルロスとリュック以外は、誰にもしゃべっておらん」 「トラヴィアータには?」  暗闇《くらやみ》から葉巻の煙が舞い上がった。そして、葉巻の先から次第に、光の中に、�ピガールのドン・ジュアン�が姿を現した。 「誰に向かって口を利いているのか、忘れたのか」  光の中に現れた�ピガールのドン・ジュアン�の顔は青ざめていた。奴は葉巻を机の端に置いた。そして、力一杯、新坂の顎《あご》を殴った。  新坂は椅子ごとふっ飛んだ。が、パンチそのものは大したことはなかった。新坂は顎をさすりながら、起き上がろうとした。 「そのまま、床にはいつくばっていろ! わしは、お前を甘やかしすぎたらしい。まだ、付き合いもほとんどないのに……。わしも、少しヤキが回ってきたかな」 「しかし、フェルナン……」 「ムッシュ・プレジャンと呼べ」 「ムッシュ・プレジャン……。俺は、すべての人間を疑わなきゃならない。そうしなければ、奪った奴等を見つけ出すことはできない」 「トラヴィアータは、わしの女であり、はたまた娘のような存在だ。忘れるな」 「それじゃ、あの島にいる連中で、ブツが運び出される日を知っていたのは誰ですか?」  新坂は、床に座って必死で訊《き》いた。 「知っていたのはフィリップと、あそこに住んでいるふたりだけだ」  どいつもこいつも疑わしい。新坂はうつろな目を壁に向けた。 「まず、すぐに百万フラン用意しろ」�ピガールのドン・ジュアン�が言った。 「そんな……」 「わしの腹立ちが、それで収まると思えば安いものだよ、�彫像《スタチユ》�……。明後日、カルロスに取りに行かせる。そして、そうだな……今月の終わりまでに、奪った野郎を見つけ、賭け札を取り戻せ。今日を含めれば十三日ある。君なら、それだけの日数があれば、何らかの成果を上げられるだろう。しかし、もし、奪った奴が見つかっても、賭け札を回収できなかった場合は、お前が、残りの金を支払うんだ。いいな。どんなことがあっても、わしは君に手を貸さん。いっさい、君が処理するんだ」  新坂は黙ってうなずいた。 「よし、帰れ。吉報を持って来るんだぞ、長生きしたかったらな」  新坂は、ひとりで細い階段を上がり、外に出た。  ピガールの駅に向かう。ネオンの色に染まった歩道は、観光客と物ほしげな男たちで賑《にぎ》わっていた。ライブ・ショーの呼び込みが、日本語で新坂に声をかけて来る。  クソッ!! 何もかもが腹だたしい。呼び込みのひとりが、しつこかった。新坂の腕をぐいと引っ張った。  新坂は思わず、相手の胸ぐらをつかんだ。周りに与太《よた》っていた仲間が飛んできて、新坂を取り囲んだ。  新坂は男の胸から手を離し、与太者を無視して再び歩き出す。新坂の殺気に毒気を抜かれたのか、与太者たちは、すっと彼に道を譲った。  アパートに戻った新坂は、ダイニング・テーブルの前に座り、バーボンのストレートを、引っかけた。  喉《のど》から胸にかけて、熱い液体がゆっくりと下りて行く。もう一杯、グラスに注ぎ、一気に空けた。  誰が情報をもらしたのだ。なぜ、�メリュジーヌ�号のことが分かったのだ。次から次へと疑問がわいた。  ピエロとジャックが裏切ったはずはない。なぜなら、ふたりに偽造賭け札のことを教えたのは船の中でのことだった。  船に押し入った男たちのボスは、島から持ち出した荷の内容を知っているような口振りだった。奴等は、かなり前から、偽造賭け札のことを知っていたらしい。  クロード・ラマルシュが、金を払うのを惜しんで、強硬手段に訴えたのか。いや、陽気なセックス狂が、長い付き合いのある新坂を襲ってまで、賭け札をせしめようとしたとは考えにくい。  あの島にいる連中はどうだ。フィリップにはそんな度胸はないし、後のふたりについては、何とも判断のつけようがない。  新坂は�ピガールのドン・ジュアン�と仕事の話をしてから、会った人間をひとりひとり思い出してみた。  トラヴィアータ、シランス、落合……。その三人のうち、トラヴィアータだけが計画を知っていた。 �ピガールのドン・ジュアン�と同じように、新坂もトラヴィアータを疑いたくはなかった。彼女が、自分を襲わせたなんて、想像もしたくない。しかし、新坂の頭の中では、この間の拉致《らち》事件が引っかかっていた。  フェルナンの知らないところで、トラヴィアータが何かやっているとすると、彼女が情報提供者だったという可能性はおおいにある。  しかし、どうやって、�メリュジーヌ�号のことを嗅《か》ぎつけたのだろう。それが解《げ》せない。河岸沿いを車でつけて来たのだろうか?  新坂は溜息《ためいき》をついた。そして、力なく立ち上がると寝室に入った。ジャックのところから持ち帰った三丁の拳銃の中から、警察が使用しているマニューリンを選び、ショルダー・ホルスターとナイフも一緒に取り出した。  その時、チャイムが鳴った。布団の中に武器を押し込むと、新坂は静かにドアに近づき、ドア・スコープをのぞいた。  廊下には落合が立っていた。 「ちょっと時間が遅いんだが、寄ってみた」 「入れよ」 「いいのか」落合が躊躇《ためら》った。「女房に嫌われたくないぜ、俺は」 「ひとりだ」  居間に通された落合は、部屋を眺め回した。 「ひとりで飲んでいたのか?」 「ああ。圭さんも飲むか」 「俺はビールがいい」 「冷蔵庫に入ってる。勝手にやってくれ」  落合はキッチンに行き、冷蔵庫を開けた。 「お前、本当に女房がいるのか?」  冷蔵庫の中。夫婦者が生活しているにしては、あまりにも殺風景なのだ。 「別居中なんだ」新坂は淡々と答えた。 「お前にも、いろいろあるんだな」落合が、新坂の顎《あご》のあたりをちらっと見た。 �ピガールのドン・ジュアン�に殴られた箇所が、腫れ上がっていたのだ。 「あれ以来、トラヴィアータの館には行ってないのか?」新坂が訊《き》いた。 「あそこからの帰りだよ」 「まさか、またシランスに大勝負を挑んだんじゃないだろうな」 「そうしたいところだが、あいつに勝つ方法を考えつくまでは、やらないことに決めた。五十万フラン。今から思うと大金をすったもんだな」 「なぜ、あんな無茶をしたんだ」 「前にレストランを始めたいと言ったろ。アルジェリアで働いていた時の仲間三人と始めようと思っていたんだが、目をつけた店舗の商業権利が二百五十万フランもするんだ。五十万ばっかり足りなくてな……」 「圭さんも変わったな」 「何が?」 「昔は、あんな馬鹿なバクチはやらない男だったのに」 「しかし、手っ取り早く、金を作る方法なんかないだろう。銀行が借金させてくれるわけないし……」 「選んだ相手が悪すぎた」 「そのようだな」落合は短く笑った。 「今夜もシランスは、来ていたか」 「いや、来てなかった」 「トラヴィアータはいたか?」 「むろん、いたさ」  新坂は、グラスに酒を注いだ。 「新坂、お前、あの女に惚《ほ》れてるな」 「トラヴィアータはフェルナンの女だよ」 「答えになってないな」落合が、皮肉めいた笑いを口許に浮かべた。「ところで、フェルナンって爺さん、あれはギャングだろう?」 「どうしてそう思う?」 「何となく分かるさ、雰囲気で。それに、あの爺さんにくっついている若い奴等の顔は、堅気の顔じゃないよ」 「トラヴィアータは、そのギャングの女だ」新坂はそう言い、軽く溜息をついた。 「お前、あのギャングと仕事をしているらしいな。本当は、何やって暮らしてるんだ」 「家電の輸入業者だと言ったろ?」 「それは、表向きの商売なんじゃないのか」  新坂は背もたれに深く躰《からだ》を倒して顎《あご》を引き、落合を見つめた。  右手の指が自然にテーブルを叩《たた》いていた。  落合圭一。こいつが、偽造賭け札を強奪した連中の仲間とは考えられない。本当のことを打ち明けて、手を貸してもらおうか。賭け札を奪った奴等を見つけたとして、ピエロと自分だけでは、とても相手と渡りあえない。ひとりでも、味方が多い方がいい。 「どうした、怖い顔をして」落合が笑った。 「俺は、フェルナンの仲間じゃないぜ」 「もういいよ。お前が話したくなければ、無理に聞き出そうとは思わん」 「俺の本当の商売は盗品の故買だよ」 「盗品の故買?」 「そうだ。盗人の戦利品を捌《さば》くのが俺の仕事だ」 「お前が故買屋ね、信じられない」落合は、えらく感心したような顔をして新坂を見つめた。 「圭さんに頼みがあるんだが……」 「何だい?」落合は微笑んだが、その底には警戒心が現れていた。  新坂は、偽造賭け札の件について落合に話した。 「……今月いっぱいで、犯人を見つけるなんて無理な話じゃないのか。あと十日ちょっとしかないぜ」 「俺ともうひとりの仲間だけでは、人手が足りないんだ」 「なるほど。それで、俺に協力してくれってわけか」 「嫌なら断ってくれ。そして、今の話はすべて忘れてくれ」  落合は丸い顎《あご》に手をやり、ゆっくりとさすった。 「具体的に、俺に何をやってもらいたいんだ」 「まだ、はっきりと決めてはいないが、圭さんに頼むことは、おそらく、調査だ。今回の計画を知っていた人間は、そうたくさんはいない。そいつ等を洗い、怪しい奴等を片っ端から調べ上げるつもりだ」 「計画を知っていた奴は、何人くらいいるんだ?」 「八、九名というところかな。その中で、よく素性が分からないのは、島に住んでいるフィリップの仲間ふたりだ」 「時間がなさすぎる」 「盗んだ奴等も、早めにブツを処分したがるはずだ。俺の知っている情報屋にも、それとなく探りを入れる。フランの賭け札はともかく、ドルの賭け札を捌《さば》くとなると、やはり、アメリカにコネがなければ無理だ。必ず、見つけ出す。俺のためにも……そして……」 「そして、何だ?」 「いや、何でもない」  新坂はジャックのことを思い出したのだ。 「分かった、新坂。お前に協力するよ」 「きちんと報酬は払う。五十万フランという額にはほど遠い金額だがな」  落合が短く笑ってうなずいた。 「それで、明後日までに支払わなければならない百万フランはどうする気だ?」 「俺は、手元に四十万しかない。それで何とか、急場を凌《しの》ぐしかないだろう」 「思い切って、シランスに頼んでみたら? 俺から五十万巻き上げた野郎だ。何とかなるんじゃないのか?」 「いや……可能性は極めて薄いと思うが、奴も、容疑者のひとりだ。そいつに借りるわけには行かない」 「なぜ、奴まで疑うんだ?」 「シランスは……」そこまで言って口をつぐんだ。葬儀屋に封筒を運んだことをしゃべりそうになったが、いくら落合にでもそのことは話してはならない。今度の事件とシランスが何の関係もなければ、やはり約束を破ったことになる。 「シランスがどうしたんだ?」 「何でもない。奴の素性がはっきりしない、と言いたかっただけだ」 「奴が今度の事件に関わっていると疑っているのなら、なおさら、借金を理由に奴に近づいてみるべきじゃないか」 「シランスだけを疑っているわけじゃない。俺の周りの人間、すべてを疑ってる」 「俺も、その中に入ってるのか? 俺は、この間、五十万すった。動機は充分じゃないか」 「圭さんには、組織力がない」 「じゃ、シランスにはあるのかい?」 「いやに奴にこだわるんだな」 「そうじゃないが、謎《なぞ》めいた男だからな、シランスは」  新坂は黙りこくった。落合の言う通り、六十万もの金を、すぐに用意できる人間は、彼の周りに、クロード・ラマルシュとシランスぐらいしかいない。しかし、クロードは絶対に貸してはくれないだろう。何の保証もないのに、金を出す男ではないのだ。  シランス。一か八か借金を申しこんでみるべきかもしれない。  たとえ、金が借りられなくても、落合の言う通り、疑わしい人物のひとりに接近する口実にはなるのだから。 「……よし、シランスに頼んでみよう。さっそく、奴のところに行ってみるよ」 「俺も一緒に行こう」  新坂はテーブルの上に放り投げてあった車のキーを取った……。     *  シランスは家にいた。  ふたりの顔を見ると、しばしドアを開けたまま、じっと立っていた。 「頼みがあって来た」新坂が言った。  シランスは黙ってうなずき、ふたりを中に通した。  ソファに座った落合は、部屋の中を見るともなしに見ていた。 「頼みごととは?」 「金を貸してもらいたいんだ」 「いくら」 「六十万フラン。フェルナンとの取引でトラブルが生じたんだ。明後日までに百万フラン、奴に渡さなければならなくなった」 「なぜ、私のところに来た?」 「他に頼める相手がいなかったからだ。もし駄目なら、はっきりそう言ってくれ」 「新坂に、その金を貸してくれたら、俺たちは、あんたのために何でもする」横合いから、落合が口をはさんだ。 「例えば、どんなことを私のためにしてくれるんだ」瞬きを忘れた目が、落合を見つめた。 「そう言われても答えられないが、ともかく、あんたに困ったことがあったら、手を貸す」  シランスは、しばし黙りこくっていたが、やがて、おもむろにこう言った。 「百万フランは、明日、私の手からフェルナンに渡しておく」 「俺は四十万は出せる」 「私は賭事さえやれば、すぐに金は作れる」 「どんなことをしてでも、俺は返す」新坂はシランスを見つめた。 「君のことは信用している。さあ、もう帰ってくれないか」  そう言って、シランスは静かに立ち上がった。     13  翌日の午後、新坂はピエロと落合をアパートに呼んだ。彼等が来るまで、新坂は知り合いの情報屋に、電話をかけまくった。カフェのパトロン、競馬のノミ屋、そして、信用のできる故買屋などにだ。そして、新聞を買いに行った。  ジャックの死体が発見されたかどうかが気になったのだ。新聞には何も出ていなかった。身寄りもなく、人とのつきあいもほとんどなかったジャック。死体は、しばらくは発見されないだろうと、新坂は踏んだ。  その足で、近くのレンタカー屋に行き、落合のためにルノーのバンを借りた。そして電話局に寄り、パリ郊外、ポワシーにあるフィリップの父親の会社の住所と電話番号を調べた。  落合は、約束の時間よりも早めにやって来た。そして、彼がコーヒーを飲んでいるところへピエロが現れた。  ピエロは落合をちらっと見てから、視線を新坂に移した。 「いいんだ、ピエロ。奴は、俺の古くからの友人だ。信用していい」  落合をピエロに引き合わせる。ピエロは無表情のまま、小声で挨拶《あいさつ》をし、ソファに座った。 「彼がお前の相棒か」落合は驚きを隠さなかった。 「まだ若いが、こいつは、普通の大人の倍は役に立つ」  ふたりが椅子《いす》に座ると、新坂は、計画を話し始めた。 「まず、九人の怪しい人物の中から、正体不明のふたり、つまり、荷を運ぶのを手伝ったフィリップの仲間ふたりを、あんた等に尾行してもらう」 「それはいいが、奴等が犯人だとしたら、なかなか尻尾《しつぽ》を出さないんじゃないか」 「いいから、徹底的に奴等の行動をチェックしてくれ。ピエロ、あのふたりの顔を覚えてるな」 「大丈夫だ」 「奴等の住所をつかんだら、俺に知らせろ」 「それでどうするんだ」 「偽造賭け札を作ってるだろう、と脅しの手紙を投函《とうかん》する。奴等は動き出すに違いない。何もやっていなければ、フィリップに会いに行くか、或いはフェルナンに連絡を取るだろう。だが、奴等が、情報提供者なら、必ず、違う人間に連絡を入れるはずだ」 「文面はどうする」 「今から作る」 「もし、そのふたりが、妙な行動を取らなかったら?」落合が不安げな顔を新坂に向けた。 「その時は、他の線を当たる。トラヴィアータ、フェルナン、そして、その子分……全員を徹底的に調べる」 「それで、�彫像《スタチユ》�、あんたはどうするんだ」ピエロが訊いた。 「トゥルーヴィルのカジノに行く。盗んだ奴等も、使ってみるまでは不安なはずだ。あの偽造賭け札を使える、パリから一番近いカジノは、トゥルーヴィルのカジノだ。必ず、俺がやったように、試しに使いに来るはずだ」  新坂はそう言いながら、上着のポケットから、封筒を取り出した。そして、それをピエロに投げた。 「約束の金だ。先に渡しておく。だが、しばらくは、バイクも女もあきらめてくれ」  ピエロは、封筒をテーブルの上に置いた。黒い瞳が、じっと新坂を見つめていた。 「受け取れねえ。盗まれた物が見つからなかったら、あんたは、金を工面しなきゃならなくなる」 「それくらい取っておいても、焼石に水だ」 「俺の溜《た》めた金を使う」 「いいから、取っておけ」  ピエロは頑固だ。唇を噛《か》み締め、首を横に振った。  新坂は、封筒をビューローの引き出しにしまった。 「お前と言い争っている暇はない。ここに入れておく。だが、買いに行く時には、俺にひとこと断るんだぞ」  三人はアパートを出た。  ピエロは、落合のために借りておいたルノーの荷台にソレックスを積み、自分は助手席に乗った。  新坂は、そのままトゥルーヴィルに向かった……。  新坂は、連日連夜、カジノに入り浸り、三台のルーレット台に五百フランの賭け札を出す人物を観察した。そのうちの半分は常連客だった。  怪しげな素振りを見せる者は、まったく見当たらなかった。カジノの様子を窺《うかが》いながら、おもむろに五百フランの賭け札を出す人間も、負けているはずなのに、帰り際に五百フランの賭け札を両替する者も、新坂には発見できなかった。  新坂の泊まっているホテルには、毎日、落合から報告が入った。脅しの手紙を、ふたりの住むアパートのメイル・ボックスに投函したが、彼等は、手紙を受け取ると、あわてて島に飛んで行っただけで、怪しい行動はいっさい取らなかった。  三日目の電話で、新坂は落合に、ふたりの男の尾行を中止させ、代わりに、ピエロにフィリップ、落合にフェルナンを尾行してくれと頼んだ。そして、明後日の午後一時に、アパートに来るように告げた……。  結局、四日間、トゥルーヴィルにいて、新坂はパリに戻った。  何の成果も上げられなかった新坂の顔はいつになく冴《さ》えなかった。  アパートに入った直後、電話が鳴った。相手は�ピガールのドン・ジュアン�だった。 「島に住んでいる連中を調べ回っているようだな」厭味《いやみ》な笑い声。  新坂はむっとしたが堪えた。 「御用は?」 「確かに百万を受け取った。そのことを知らせようと思ってね。いい友を持っていて幸せだな、君も」 「お話はそれだけですか」 「それだけだ。あと今日を含めて八日間だ。早く、わしの賭け札を取り戻してくれ」  電話がブツリと切れた。新坂は受話器を叩《たた》きつけた。  午後一時少しすぎに、落合が現れた。しかし、ピエロは三十分たっても現れなかった。  こんなことは初めてだ。新坂は、心配でしかたがなかった。 「確かに、今日の一時だと伝えてくれたね、圭さん」 「もちろんだ。女のところにでも引っかかってるんじゃないかな」 「ピエロが何か言っていたのか?」 「はっきり聞いた訳じゃないが、俺が、�恋人はいるのか�って訊いたら�まあな�って答えていたよ。あの少年は無口で、必要なこと以外は、ほとんどしゃべらないから、詳しいことは分からない」 「そういう奴なんだ、あいつは」 「でも、この四日間で、少しは俺に打ち解けた。あいつは、お前を強く、慕っているらしいな」  二時を回った。だが、ピエロからは連絡すらない。新坂は他のことが手につかなかった。賭け札を盗んだ奴等のことも気になるが、ピエロのことの方が、気がかりだったのだ。  フェルナンの見張りを続けてくれ、と落合に頼み、新坂は、アパートで待機することにした。  夕方まで待った。だが、何の連絡もなかった。何度もラジオのスイッチをひねろうとしたが、途中で手が止まった。怖かった。新坂は最悪のことを考えていたのだ。  尾行がバレて、そのせいで……。  電話が鳴った。受話器に飛びついた。相手は落合だった。 「フェルナンに何か?」 「いや、そうじゃないんだ。落ち着いて聞け。ピエロが死んだ」  新坂はしばし口がきけなかった。 「ピエロは殺されたんだ」 「なぜ、それを圭さんが……」 「新聞に出ている。ヴァンセーヌの森で今朝、ミッシェル・フェリー、十八歳の射殺死体が発見されたとある」  なぜだ……。なぜ、ピエロが殺されなければならないんだ。 「もしもし、新坂、聞いてるのか」 「フェルナンのことを頼んだぜ」新坂はそう言って、電話を切った。  ソファの端に座り頭を抱えた。放心状態。陽が落ち、部屋の中が暗くなっても、新坂は、ただソファに座り続けていた。  煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐く。少し冷静さを取り戻した。汗でべったりと濡れた髪をかきあげ、立ち上がった。アパートを出、キオスクで新聞を数紙買い、カフェに入った。アパートでひとりで、ピエロの死を報じた記事は読みたくなかったのだ。  ビールを頼み新聞を開いた。  ピエロは頭に二発、弾をぶちこまれて死んだのだ。殺害現場はヴァンセーヌの森ではないらしい。殺されてから、森に捨てられたと警察は見ていた。  他の新聞記事にも目を通した。一紙だけ、少年の持っていた身分証は偽造されたもので、被害者はローマンヴィルに住むジプシーだと記されていた。  ビールを二杯飲み、カフェを出た。食欲はまるでなかった。途中の路上の屑《くず》かごに新聞を、思いきり投げこんだ。  アパートの前に男がふたり立っていた。  ローマンヴィルのジプシーだ。彼等は、ゆっくりと新坂の方に近づいてきた。 「ピエロのことは、さっき知った」新坂がぼそりと言った。 「�彫像《スタチユ》�、一緒に来てもらおうか。ロムが会いたがっている」頬《ほお》に傷のある長髪の男が、冷たい口調で言った。  新坂は黙ってうなずいた。彼等は二台の車で来ていた。古いプジョー204とペンキの剥《は》げたルノー4。新坂はルノー4に乗せられた。車の中には、大柄なジプシーがもうひとり乗っていた。  車はローマンヴィルを過ぎても高速を降りず、ボビニーまで走った。そしてそこから国道三号線に入り東に向かった。  新坂は、途中でどこを走っているのか分からなくなった。やがて、車は小さな森の中に入った。  車中、ジプシーたちも新坂も一言も口を利かなかった。  車は山小屋風の家の前で止まった。そこには、もう一台車が止まっていた。湿った枯れ草を踏みしめて、小屋に近づいた。  廃屋のような小屋には、灯油のランプがふたつ灯っていた。ロムは、朽ちた木製の長|椅子《いす》に座っていた。  車に乗っていたジプシーたちのひとりが、新坂の腕をねじあげた。  怪力。新坂はうめき声を上げながら膝《ひざ》をついた。 「ピエロを殺したのは、お前か」ロムが低い声で訊《き》いた。 「いや、俺じゃない」  再び、腕がねじ上げられた。 「腕をへし折られたいか、�彫像《スタチユ》�」 「俺は、この四日間、トゥルーヴィルに行っていた。ピエロを殺したのは、俺じゃない」 「お前は、ピエロをたぶらかし、こき使った。わしは、何度もピエロに注意をした。だが、孫はわしの言うことを聞かなかった」 「金はきちんと払っていた」 「お前はピエロを使っていくら儲《もう》けた」 「誤解だ。奴は、俺と働くのを楽しんでいた」 「ジプシーの本当の姿は放浪にある。しかしわしらは、生活のために定住を余儀なくされた。しかし、他のヨーロッパ人や日本人などとは、絶対に一緒に働いてはならんのだ」 「奴は、今の暮らしから抜け出したがっていた」 「いや、孫は、わしらのことを思っておった。現に、一昨日、家を出て行く時、わしに、ナチスのようなガージョがいたら、今でもぶっ殺したいか? と訊いた」 「ナチスのようなガージョ?」 「ガージョは、わしらの言葉で、ジプシー以外の人間、特にヨーロッパ人のことをさす。孫は、そういう人間に何かされたのだ。その誰かとはお前しかいない。日本人はヨーロッパ人ではないが、やっていることは、他のガージョと変わらない」 「ピエロと俺は、うまく行っていた。ピエロは俺を慕っていた」 「そんな馬鹿なことはない。ガージョと親しくなるわけがない」 「ピエロは俺からもらった金を溜《た》めていた。将来のために」 「その金はどこにある」 「俺が預かっている」 「預かるだと! お前はうまいこと言って、孫を騙《だま》し、そして、用がなくなったから殺したんだ」 「違う! 聞いてくれ、ロム……」 「何も聞きとうない。お前は、孫を利用し殺した。ナチスのようなガージョとはお前のことだったんだ」 「俺はピエロに指一本、触れてはいない」 「信用できん。お前となど付き合わなかったら、あの子は死なずにすんだ」  新坂は黙るしかなかった。ロムの言う通りだ。ピエロの死は、どう考えても自分と無関係とは思えなかった。 「ピエロは頭のいい子だった。俺は、自分の手先に使っていたが、いつか奴の夢をかなえてやりたかった」 「孫の夢とはなんだ?」 「海に出ることだった。ジプシーの放浪の血は、ピエロにも生きていたんだ。俺は、ピエロが可愛《かわい》かった。自分の弟みたいに……」  新坂はロムを見つめた。ロムも新坂から目を離さなかった。ロムの目が涙で潤んでいた。 「俺は、ピエロを殺した奴を、必ず、見つけ出す。だから、それまでは、自由に振る舞わせてくれ。命乞《いのちご》いをしているんじゃない。俺は、今あることで�組織�ともめている。ピエロの死は、そのことと関係があると思ってるんだ。時間をくれないか、ロム」  長い白髪混じりの髪を垂らしたロムは、身動きひとつせず、天井を見ていた。だが、しばらくすると、長老は、ゆっくりと右手を上げ、二度上下に振った。新坂の腕をねじ上げていた男が、力を緩めた。新坂は立ち上がった。ロムも、若者の手を借りて、腰を上げた。 「わしは、お前を殺すつもりだった。だが、考えなおした。お前を殺すのは、いつでもできる。お前が犯人ではないのなら、犯人を探し出し、わしのところに連れて来い」  ロムは新坂の返事を待たずに小屋を出て行った……。 �ナチスのようなガージョ�とは、誰のことを言っているのだろうか。アパートに戻った新坂は考えた。相当、ひどい奴のことでなければ、そんな表現はしないはずだ。  ピエロは、フィリップの後をつけていた。しかし、フィリップは�ナチスのようなガージョ�と呼ばれるには、あまりにもひ弱すぎる。  ひょっとすると、今回の事件とは関係のない、例えば、ピエロの恋敵のことをそう言った可能性だってありえるが……。  いくら考えても堂々めぐり。分かっていた。だが、明け方まで新坂は、ピエロのことが頭から離れず、まったく眠れなかった。不快な疲れが全身をおおい、いくら酒を飲んでも張りつめた神経が和らぐことはなかった。  午前五時少しすぎ。新坂はアパートを出た。どこに行こうというわけではなかった。ただ車をぶっ飛ばしたかった。  ウインドーを全開にして、まだ明けきらないパリの街を、猛スピードで走った。  環状線を走っているのは、大半、長距離トラック。追い越し車線を、アクセルを踏みっぱなしで走った。  ポルト・マイヨで環状線を降りた。そこで降りたのは、偶然ではなかった。  ヌイイ地区は目と鼻の先だ。どうしても、トラヴィアータの館の方に車を走らせたくなってしまったのだ。  シャトー大通りをゆっくりと流した。もうとっくに、トラヴィアータは眠っているだろう。新坂は、赤屋根の家が眺められる位置に車を停めた。どこからも明かりはもれていなかった。  夜が白み始めるまで、新坂は車の中にいた。煙草を吸っては消す。何度も繰り返した。空白の時間を埋めていたのは、ラジオから聞こえて来る、ロックとアナウンサーの疲れを知らぬ声だけだった。  暗青色の空が、次第にその色を失い、あたりが透明な光に包まれ出した。  行き交う車の量も増え、早起きの管理人が、ゴミを出しに歩道に現れた。  新坂は、再び、トラヴィアータの住む赤屋根の家に目をやった。  と、その時、鉄門が自動的に開いた。新坂はとっさに身を伏せ、玄関を盗み見た。  シランス!  彼が、ドア越しに中にいる人間とキスをしていた。  彼は周りの様子を窺《うかが》い、門を出た。そして、ゆっくりとした足取りで、大通りに向かって歩き出した。  トラヴィアータとシランス。フェルナンの目を盗んで、いい仲になっていたのだ。  高潔な感じのするギャンブラーと、およそ世俗の垢とは縁遠い雰囲気のするギャングの情婦は、お似合いだと思った。あのふたりは、普通の恋人同士のように、べたべたとした付き合いはしていないだろう。おそらく、氷と氷が固く密着しているような、深い絆で結ばれているに違いない。  リクライニング・シートを倒し、溜息《ためいき》をついた。不思議にも、落胆の底から、或る種のほっとした気分が現れた。ページが捲《めく》られ章が変わった。そんな気がしたのだ。  ピエロを殺した奴を見つけ出す。奪われた賭け札を取り戻す。今、全力を注がなければならないのは、この二点のみ。トラヴィアータにうつつを抜かしてはいられないのだ。  しかし、心の中には、他の感情が同時にわき起こっていた。ピエロの死や窮地に追い込まれている自分の立場を利用して、感情を偽っている自分を、卑怯《ひきよう》だと感じていたのだ。  シランスが、トラヴィアータの家から出てきたという事実だけで、すでに、負け犬根性が起こり、それを今ある問題にすり替えている。まったく、情けないぜ。新坂は心の中でつぶやいた。だが、トラヴィアータに対する感情を偽ることで、自分の中から、曖昧《あいまい》に拡がる将来という時間を抹殺できれば、運は自分に向いて来るのだ。新坂は、むりやり、そう自分に言い聞かせた。  新坂は、もう一度、大きな溜息をつき、シートを起こした。     14  はっとして目が醒《さ》めた。  夢を見ていた記憶がある。だが、どんな夢を見ていたのか、さっぱり思い出せなかった。寝汗がべっとりと躰《からだ》にまとわりついていた。見ていたのは悪夢に違いない。  午後二時。新坂はインスタント・コーヒーをたて続けに二杯飲んだ。  流しもダイニング・テーブルの上も、荒れ放題に荒れている。  テーブルの上のビールの空き缶を片づけ、流しに溜《た》まったグラスやカップを洗った。  新坂の今日の行動は決まっていた。フィリップを絞め上げること。  ピエロは、フィリップの見張りを始めた直後に殺された。直接、あの気の弱い男が、人を殺し死体を捨てた、とは考えにくいが、フィリップの仲間が殺《や》った可能性はおおいにある。  フィリップが誰かに会う。そいつが、ジャックの川船を襲った奴等のひとりで、ピエロの尾行に勘づいたとしたならば、ピエロを放っておくはずはない。  新坂は、ピエロ殺害の他の可能性を、すべて頭の中から追い払った。時間がない。フィリップの線に賭ける以外に、取るべき道はないのだ。  新坂は洗い物が終わると、手帳をめくって、フィリップの父親の会社に電話を入れた。  フィリップを呼び出し、どこかで会おうと持ちかける腹だった。断られるはずはない。盗まれた賭け札のことで調べているといえば、相手が白だろうが黒だろうが会うに決まっている。  秘書のような女が出た。彼女の話を聞いて、新坂は声もでないくらいに落胆した。  フィリップは父親と一緒に、モンテカルロに行き、客と会っているというのだ。帰りは明日の夕方。今夜の計画を中止せざるをえない。焦りと苛立《いらだ》ちが、新坂を襲った。受話器を置くと、壁を思いきり叩《たた》いた。  小一時間ほどたった時、電話が鳴った。  相手は、ネタが入ったら一報して欲しいと頼んでおいたノミ屋のオリヴィエからだった。 「妙な話を聞きこんだぜ、�彫像《スタチユ》�。お前は、ダニエル・ソラルって野郎を知ってるか」 「いや。だが、そいつがどうした?」 「そいつが、俺の知ってるアメリカ人に、ドルの賭け札をアメリカで捌《さば》いてくれねえかと持ちかけたそうだ。本物の賭け札だって言ってな」  運が向いてきた。新坂の躰がすっと軽くなった。 「そのダニエル・ソラルって野郎は、どこの奴なんだ」 「それが……車の解体屋だってことしか分かってねえ」 「あんたの知り合いのアメリカ人ってのは何者なんだ」 「元は競馬の騎手だったんだが、向こうで八百長《やおちよう》にからみ、今はこっちでブラブラしてる。こっちの金持女をたらしこんで、結構、羽振りのいい暮らしをしてるんだ。名前はケヴィン・ニールセン。ダニエルって解体業者とは、競馬場で知り合っただけの仲らしい」 「それだけの関係しかないのに、ダニエルという男は、ヤバイ話をしゃべったのか」 「ダニエル・ソラルは競馬狂で、アメリカの騎手のことも、よく知っている。だから、ケヴィンの八百長事件のことも耳にしていたんだろう」 「それで、ケヴィンは、話に乗ったのか」 「いや。断ったそうだ。もうムショ暮らしはゴメンだって言ってたぜ」 「ケヴィンの連絡先を教えてくれないか?」 「六十一番地、ボナパルト通りだ。電話は、4633の3253」 「礼は近いうちにする。助かったぜ」  受話器を置いた新坂は、すぐに、ケヴィンの電話番号を押した。気取った調子で話す女が出た。ケヴィンは、鼻にかかった米語|訛《なま》りのフランス語で応対に出た。新坂は、ノミ屋のオリヴィエの友人だと言い、ダニエル・ソラルのことを訊《き》いた。  ケヴィンも、ダニエルの住まいを知らなかったし、店の場所も、オルリーから少し離れたところにある、というだけで、はっきりしなかった。 「奴は競馬場には足しげく通ってるそうだな」 「ああ。二日に一回は、顔を会わす」 「競馬場で、ダニエルを教えてくれないか。こっちの顔を見られないようにして」 「あんた、日本人だろう。一体、なぜ、ダニエルを探してるんだ。俺はトラブルに巻きこまれるのはごめんだぜ」 「あんたには迷惑はかけない。こっそりとダニエルを教えてくれるだけでいいんだ。礼はする」 「じゃ、明日、ロンシャン競馬場の前で落ち合おう。奴の馬が明日の第五レースに走る。奴は必ず、競馬場に姿を現すはずだ」 「あんたの目印は?」 「そうだな、臙脂《えんじ》色のトレーナーに白いパンツ。それにサングラスをかけている。髪は金髪だ」 「俺は、黒い上着にブルーのポケット・チーフをし、同じくサングラスをしている。体格は日本人としてはがっしりしている方だ」  新坂と元騎手は、その後の段取りを簡単に決めた。新坂は決してケヴィンに近づかず、スタンドに行く。ケヴィンは馬主席にいるはずのダニエルに頼み、横に座る。新坂はスタンドの人込みの中から、ダニエルを見ることにした。  電話を切る直前、ダニエルの車の車種を訊いた。ベンツ560SL。色は白だった。  落合に電話を入れ、まずフェルナンの様子を訊いた。  昨晩、フェルナンは真っ直《す》ぐ家に戻り、ふたりの子分は、�ピガールのドン・ジュアン�の経営するバーに朝までいた、ということだ。  新坂は、手がかりをつかんだことを話し、尾行は中止していい、と告げた。 「おそらく、その解体屋が一枚からんでいるのは確かだろうが、どうするんだ、その後は?」と落合。 「賭け札の隠し場所を発見し、取り戻す」 「ふたりでは、無理だぜ、新坂」 「俺は、ひとりでもやる。ピエロの死も、今度の事件に関係しているはずだ」 「誰か協力してくれる奴はいないのか? 例えば、賭け札を買う予定だった奴とか?」 「奴は、暴力沙汰には絶対に手を貸さない」  新坂の頭に、ジプシーたちのことが浮かんだ。もし、頭数をそろえたいなら、ロムに頼むしかないだろう。 「ともかく、圭さん、その解体屋の顔を拝みたい。明日は、俺と行動を共にしてくれ」  落合と話し終えた新坂は、ソファに腰を下ろした。  フィリップと、その解体業者がつながっているのだろうか。おそらく、そうに違いない。今夜、フィリップを絞め上げられないのが、残念でならなかった。奴からダニエル・ソラルのことを訊き出せれば、時間の浪費をせずにすんだかもしれないのだ。  しかし、オリヴィエのもたらした情報は、新坂に希望をあたえた。  ダニエル・ソラルという男が売りたがっている賭け札は、自分が奪われた物と考えて間違いないだろうし、奴は、競走馬の持ち主なのだから、単なるチンピラではないに決まってる。ソラルは、主犯か、それとも主犯と深くつながっている人物に違いないのだ。  すべては明日だ。新坂は、心の中でそうつぶやいた。     15  翌日の午後三時、新坂のアウディはロンシャン競馬場に到着した。  ゲートがよく見える池の端に、二重駐車した。新坂は、落合を車に残し、双眼鏡を片手にゲートに近づいた。  ケヴィンは、ゲートのすぐ横で、フランス・ソワール紙の競馬欄を読んでいた。その新聞の競馬欄は、黄色い紙を使っているが、ケヴィンの髪は、その紙の色に似た金髪だった。元騎手にしては、太っていた。もっとも、騎手を辞めてから太ったのかもしれないが。  ケヴィンが顔を上げた。向こうも、新坂を一瞬にして認めたらしい。新聞をたたむと、ゆっくりと競馬場に入って行った。  新坂はスタンドの最前列に立った。ウィークデー。スタンドは六分程度の入りだった。  第四レースが開始されたばかり。十頭以上の馬が一団となって、第一コーナーを回りかけたところだった。  新坂は双眼鏡を覗《のぞ》いた。むろん、馬などは見ていなかった。馬主席には、まだ、ケヴィンの姿はなかった。  馬の一群は、第二コーナーを回り、裏正面に差しかかった。三頭の馬が、先頭集団を作り、そのまま、第三コーナーを回った。観客の目が次第に熱くなり、声援が飛んだ。第四コーナーを回る。外から第二集団を抜け、猛烈に追い込んできた馬があった。本命馬かもしれない。歓声が一段と高くなった。先頭を行く三頭のうち、栗毛《くりげ》の馬はもう一杯だった。どんどん遅れて行く。追い込んできた馬は、あっと言う間に、先頭と並んだ。ホームストレッチ。座っている観客はひとりもいない。蹄《ひづめ》の音が重なり合うようにして、曇天の空に響く。  三頭の馬が、ほぼ一列に並んでゴールインした。結果は写真判定となった。電光掲示板をかたずをのんで見つめる客。すでに、馬券を捨て、スタンドを出る客……。  新坂は再び、馬主席を見た。だが、まだ、ケヴィンの姿はなかった。  写真判定の結果、穴馬が逃げきり、本命を破ったらしい。単勝の配当は、かなりのものだった。  解体業者の持ち馬が走る、次のレースが始まるまで、新坂はスタンドに座っていた。その解体業者が、�メリュジーヌ�号を襲ったひとりだったという可能性はありえる。新坂は、馬券売り場などをうろうろして、そいつに顔を見られるのを恐れたのだ。  競馬は賭事の中でも救いのあるゲームだ。主役は何といっても馬である。賭けた馬が大敗し、苛々《いらいら》している時でも、引き上げてくる馬の、あどけない目を見ると、新坂は、心が和み、仕方ない、という気分になるのだ。  新坂は、予想紙をちらっと見た。本命はダニエル・ソラルの持ち馬�カッサール・ド・プリ�だった。フランスで走る馬の名前には妙なものが多いが、これは極めつきだ。  訳せば�価格破壊者�。プリには、他に賞という意味があり、カッサールには解体業という意味がある。競馬の賞を破壊する解体業者と洒落《しやれ》たつもりなのかもしれない。それに、カッサールには、押し込み強盗という意味まであるのだ。  再び、観客がスタンドに戻ってきた。新坂は、おもむろに双眼鏡をのぞいた。  ケヴィンの姿が見えた。その隣にずんぐりとした丸顔の男が座っていた。脂ぎった皮膚。太い眉。だが、髭《ひげ》は生やしていなかった。白いジャケットに赤っぽいシャツ。ネクタイは黒いニットらしい。  やがてレースが始まった。本命の�カッサール・ド・プリ�は、スタートよく飛び出し、終始、トップを走ってゴールインした。  新坂はもう一度、解体業者の顔を見た。勝ち馬の馬主は、満面に笑みをたたえ、知り合いと握手を交わしていた。  新坂は、他の観客に混じってスタンドを引き上げ、まっすぐ競馬場を出た。 「どうだった?」落合が訊《き》いた。 「顔をしっかり拝ましてもらった。あとは奴の、ベンツが動き出すのを待つだけだ」 「まったく、お前の知らない奴なのか」 「見たこともない奴だ。だが、ジャックを撃ち殺した奴に体型が似ていた」 「となると、ピエロを撃ち殺したのも、そいつ自身ってこともありえるな」  新坂はメイン・ゲートを見つめたまま、うなずいた。  ダニエル・ソラルはなかなか現れなかった。時間がどんどんたって行く。新坂は、一言も口を利かず、ゲートを見続けた。 「ソラルがピエロを殺した奴だと分かったら、お前、どうする気だ」と落合が訊いた。 「ピエロの祖父に約束した。犯人を引き渡すとな。祖父は、おそらく、孫の敵を……」  そこまで言って、新坂は口をつぐんだ。双眼鏡をのぞく。 「出て来たぞ。あの白いベンツだ」  新坂はエンジンをかけた。ベンツの中には、ケヴィンの姿はなかった。最終レースまで残っているつもりらしい。  白いベンツは、いったん環状線に乗り、オルリー方面に向かう高速に入った。店に顔を出す気なのかもしれない。  ベンツのプレートの下二桁は、75。つまり、パリ市内で登録した車だ。住まいはパリということか?  ダニエル・ソラルは安全運転だった。中央車線を、一定のスピードで走っていた。ベンツはオルリー空港に達する高速には入らず、そのままシャルトル方面に向かった。五時十五分すぎ。視界が開けると同時に、横風が激しくなった。  オルリーに着陸しようとする飛行機が、薄汚れた漆喰壁《しつくいかべ》のような空から、ゆっくりと姿を現した。  ベンツはシリー・マザランで高速を下り、県道一一八号線を左折。新坂のアウディは、充分に距離をおいて、ベンツの後を追った。  やがて、鉄道線路を越え、国道七号線を横切った。一キロほど行った広場を道なりに右に曲がる。そこは、アティス・モンスという街らしいが、新坂も落合も来るのは初めてだった。 「このまま行くとセーヌ川にぶつかるぞ」地図を見ながら、落合が言った。  右の方に機関車や貨車が見えた。どうやら操車場らしい。  線路を渡ったベンツは信号で止まった。新坂は車を端に寄せた。ベンツの右のウインカーが点滅している。  信号が青に変わった。ベンツはゆっくりと右折した。新坂は一呼吸おいて、車を出した。  ベンツは、さらに五百メートルほど走って、停止した。新坂のアウディは、そのまま通過した。  |AUTO CASSE DE SEINE《オート・カツス・ドウ・セーヌ》(セーヌの自動車解体屋)という大きな看板があり、その下に、�フランス全土、廃車の引き取りは無料、中古部品の販売、事故車の修理�と書かれてあった。  看板の後ろに事務所があり、その横は広い空き地になっていて、廃車になったボロ車が、座布団でも重ねたように積んであった。  解体屋の周りはすべて、工場だった。  新坂は次の角を曲がり、再び、セーヌ河岸の道路に出た。 「どうするんだ?」落合が訊いた。 「待つ」きっぱりと答えた新坂は、車を端に寄せた。  辺りは次第に暗くなり、解体屋の看板にネオンが灯った。近くの工場で働いていた連中が、煤《すす》けた煉瓦塀《れんがべい》から出てきて、思い思いの方に散って行く。  ふたりは、ほとんど口を利かなかった。一時間……一時間半。時はゆっくりと流れた。  その間に、車が何台か店の前に停まったが、降りてきた人間は見知らぬ男たちばかり、中古部品を買いにきた客たちらしく、長居をする者はひとりもいなかった。  ダニエル・ソラルが、再び、ベンツに乗り込んだのは八時少し前だった。直接、パリに戻り、シャンゼリゼの裏のレストランに入った。 「圭さん、腹減ったろう」新坂は落合に笑いかけた。 「ああ。ペコペコだよ」 「あのレストランで食事をしてきてくれ」 「お前は?」 「俺は、ここで待機している。どんな奴と食事をしているか、途中で、電話を入れてくれ」神坂は自動車電話の番号を教えた。  落合は、ネクタイを締めなおし、車を降りた。新坂は、空っぽの胃に煙草の煙を送りこんだ。  落合がレストランに入って、十分ほどたった時、レストランの前に、赤いBMW528が停まった。  どこかで見たBMW。ドアが開き、シャンタン・シルクのブラウスにベージュのパンツを穿《は》いた女が降りてきた。歩道で手に持っていた黒いジャケットを着、ダニエル・ソラルのいるレストランに入った。  女はフィリップの母親、エブリーヌだった。  新坂は、ひとりでうなずいた。フィリップ自身が母親に情報をもらし、母親がダニエル・ソラルに話したのだ。  電話が鳴った。相手は落合だった。落合は、ダニエル・ソラルの席についた女のことを告げた。間違いない。情報を洩《も》らしたのは、フィリップ・ブラッサールだったのだ。 「圭さんは、そこでゆっくり食事をし、アパートに戻っていてくれ。後で連絡を入れるから」 「いいのか、奴等を放っておいて」 「かまわんよ。絶好の手を考えついた」  受話器を置いた新坂は、すぐに車を出した。  フィリップは、もうニースから戻っているはずだ。秘密の工場に行き、フィリップを捕らえる。新坂の頭にはそれしかなかった。ポルト・マイヨに出て、国道一九二号線を突っ走った。  九時半すぎ、�ピガールのドン・ジュアン�が、リムジーンを駐車したところに車を入れ、ダッシュボードから拳銃とナイフを取り出し、河岸に降りた。島は、闇《やみ》に包まれている。河岸には、ボートが五隻、縄で繋《つな》がれ浮いていた。縄をナイフで切ろうとした。その時、ボートにオールがないのに気づいた。  どこかにしまってあるはずだ。新坂は辺りを見回した。確か、駐車場の奥に小屋があった。あそこに入れてあるに違いない。新坂は再び、駐車場に戻った。  プレハブの小屋には、南京《ナンキン》錠がかかっていた。車から工具箱を取り出し、スパナーで叩《たた》き壊すことにした。金属と金属のぶつかる音が、辺りに響き渡った。通りの方に目を配りながら、叩き続けた。蝶番《ちようつがい》が壊れた時、通りに長い人影が見えた。新坂は車の陰に身を隠した。ルンペン風の酔っぱらいが、特大のワインの瓶を下げて、ゆっくりと通りすぎた。  男の影が消えると、すぐに、小屋に飛び込んだ。懐中電灯の光の輪の中に、オールが現れた。オールを抱え河岸に急ぐ。ロープは堅く、簡単には切れなかった。川面をつたう風が、汗で濡れた頬《ほお》をなでる。  ロープを切り、一番手前のボートに飛び乗った。  島に着いた新坂は、懐から拳銃を取り出し、バンガローに向かった。道はぬかるんでいて、何度も足を取られそうになった。  この島に住んでいる残りのふたりが気になった。フィリップのお目つけ役を�ピガールのドン・ジュアン�から、密《ひそ》かに頼まれている男たちだから、事情を話せば、協力を得られるかもしれない。だが、そうする気はまるでなかった。�ピガールのドン・ジュアン�は、いっさい手を貸さない、と言った。新坂には意地があった。それに、本当の黒幕が、ダニエル・ソラルだと判明したわけではないのだ。信用のできない人間を頼りにするのは危険である。  ふたつのバンガローから明かりが漏れている。新坂は工場の裏に回り、そこから、フィリップの寝泊まりしているバンガローに近づいた。  おそらく、他のふたりは、もうひとつのバンガローにいるのだろう。奴等に気づかれずに、フィリップを拉致《らち》する方法を考えた。だが、何のアイデアも浮かばなかった。  裏の窓に近づき、中の様子を窺《うかが》った。女のうめき声が聞こえた。フィリップは、�ピガールのドン・ジュアン�から解放されたテレサとかいう女と、ここで生活しているらしい。  新坂は、バンガローを一周し、侵入できそうな場所を探したが、見つからなかった。  再び、裏の窓まで戻った。焦《じ》れた。他のふたりのことなど、かまってはいられない。  フィリップらしい男の声が何か言った。女が大声で笑った。と同時に、新坂は思い切り拳銃でガラスを破った。  女が悲鳴を上げた。  割れたガラスの間から、フィリップに銃を向けた。  隣のバンガローのドアが開く音がした。 「仲間に何でもないと言え。イチャついていた拍子に、ガラスが割れたとでも言うんだ。妙な真似《まね》をしたら、女は死ぬ」  新坂は銃口をベッドの中にいた女に向けた。  フィリップは、せわしげにうなずき、サイド・テーブルの上にあった眼鏡をかけた。表のドアがノックされる音がした。  フィリップは、あわてて返事をし、パンツを穿《は》きながら表に飛び出して行った。  女は毛布で躰《からだ》を隠し、青ざめた顔を新坂に向けていた。新坂は、破れた窓から手を突っ込み、窓の鍵を外す。女が息をのんだ。新坂は、唇に指を当てた。  窓を、爆弾でも取り扱うように、慎重に開けた。  ほどなく、フィリップが戻ってきた。新坂は、部屋の中に入り、フィリップに銃を向けたまま、ガラスの破れた窓を閉め、カーテンを引いた。  ベッドの横にあった椅子《いす》に女の服がかかっていた。 「お前は、そのまま毛布を被っておとなしくしていろ」新坂は、女を睨《にら》みつけた。  女は、すぐに言われた通りにした。 「フィリップ、その椅子に座れ」 「ぼ、僕はムッシュ・プレジャンのために働いているんだぞ。その僕に……」  歯の根が合わない。 「いいから座れ」  フィリップは、這うようにして椅子に座った。 「母親の男の名前はなんて言う」 「ダ、ダニエル・ソラルだ。でも、なぜ、そんなことを訊く?」 「お前、母親に今度の計画を話したな」 「ぼ、僕は何も話さない。オフクロは何も関係ない」  フィリップの躰が震え出した。新坂は後ろから、奴の髪を引っ張った。 「言え。あの賭け札はどこにある」 「知らない、僕は……。頼む、許してくれ。た、確かに、僕はオフクロに計画を話した。だが、あんなことになるとは知らなかったんだ」 「ブツは、ソラルの工場にあるのか?」 「ほ、本当に知らないんだ」 「母親に訊《き》きに行くこともできるんだぞ」  フィリップは、横目で新坂を見て、首を激しく横に振った。 「助けてくれ。あんたが盗まれた分、僕が弁償する。じ、時間は少しかかるが、同じだけの賭け札を、あんたに納めるから」 「お前が、親離れできないせいで、ふたりも人が死んだ。俺の仲間がふたりも死んだんだ」  もう一度、力一杯、髪を後ろに引っ張った。フィリップの顔が天井を向いた。半開きの口をパクパクさせながら、フィリップは泣き出した。 「よし、服を着ろ」 「ぼ、僕をどうするんです。こ、殺す気ですか?」 「お前の仲間に、今から女と一緒に街に出ると言え」 「嫌です。ここを出たら、ぼ、僕は殺されるんだ」 「プレジャンに電話を入れようか。奴が今度のことを知れば、ここを出なくても、お前も女も、死ぬ。長生きしたかったら、服を着るんだ」  フィリップはよろよろと立ち上がった。 「お前も服を着るんだ」女に言う。  毛布から顔を出した女は、縮れ毛の長い髪を、頭を振って整え、のろのろと服を着始めた。 「お前が戻るまで、女を預かっておく。ボートは自分で用意すると言うんだぜ」  フィリップは大きくうなずき、部屋を出て行った。 「ねえ、あんた、わ、私、何でもする。だから、プレジャンにだけは知らせないで」  フィリップよりも、�ピガールのドン・ジュアン�の怖さを知っている女は、眉を八の字にして、懇願した。 「あんたも、プレジャンのブツが奪われたことを知ってたのか?」 「ええ。だって、フィリップが話したもの」 「奴は何て言ったんだ」 「それは……」 「俺には本当のことを言った方がいい」 「母親の男が、賭け札を奪うことを考え出したんだって。その男は、初めフィリップに横流しをもちかけたんだけど、フェルナン・プレジャンの怖さを知っている彼は断ったわ。それに、私のことがあったから、この島を襲うことも止めてくれ、と母親を通じて、その男に頼んだのよ。それで……」 「それで何だ?」  女は上目遣いに、新坂を見た。 「怒っちゃ嫌よ。あんたが荷物を引き取ってから、襲うように計画したらしいわ」 「よく船の停泊地が分かったな」 「あんたの引き取った荷の中に電波探知機を仕込んでおいたんですって……」  新坂は歯をかみしめてうなずいた。  フィリップが戻ってきた。  女とフィリップはまっすぐ、船着き場に向かったが、新坂は、彼等の動きを見ながら、かなり離れて進んだ。  乗ってきたボートを残しておくと、仲間が騒ぎ出すかもしれない。新坂は自分のボートに女を乗せ、対岸に向かった。  岸に着くと、新坂は女に訊いた。 「駅の場所は知ってるか?」 「ええ」 「駅ならタクシーを拾えるだろう」 「何ですって、駅まではたっぷり二キロはあるのよ」 「テ、テレサは、僕と一緒に……」 「さあ、早く行け」新坂は女に言った。「今夜のことは誰にもしゃべるんじゃないぞ。しゃべったら、プレジャンの耳に必ず入る。忘れるな」  女は靴音を響かせて、エルブレの街に向かって歩き出した。 「どこに行くんです?」車の助手席に乗せられたフィリップがおずおずと訊《き》いた。 「安全ベルトをしな」  フィリップはベルトを引き、止金に差し込んだ。「おとなしくしてるんだぞ」新坂はフィリップを睨みつけた。フィリップは小刻みにうなずいた。  車を通りに出す。 「母親とダニエル・ソラルはどこに住んでいる?」 「…………」フィリップは答えない。  新坂は同じ質問をもう一度繰り返した。 「カ、カルディナル・ルモワン通りです。パラディ・ラタンってキャバレーの並びです。お、お願いです、オフクロには何もしないで下さい」  新坂は、黙ったままパリに向けて、車を走らせた。  フィリップの母親は、アパートに戻っているだろうか。ダニエル・ソラルの持ち馬が優勝したのだ。奴等は、明け方まで帰宅しないかもしれない。  新坂は、自分のアパートにフィリップを、いったん連れて行くつもりだったが、考えなおした。  疲労で神経が張りつめていた。へたをすると、今夜にもダニエル・ソラルと対決することになるかもしれない。少し、休んでおきたかった。  頼れるのは落合しかいない。奴の住まいは十三区のゴブラン通り。ダニエル・ソラルの住む通りから、それほど遠くはない。いったん、フィリップを連れて落合のアパートに行く。そして、そこから、母親に電話を入れることにした。  三十分ほどでパリに入った。フィリップは何度も、どこに行くのか訊いたが、新坂は終始、口を開かなかった。ポルト・マイヨから環状線に乗り、ポルト・ド・イタリーで降りると、フィリップが、にわかにそわそわし始めた。 「ダニエルのところに行くんですね。そ、そんなことをしたら、僕もオフクロも彼に殺される……」 「静かにしろ。ダニエル・ソラルのところには行かない、今は」  イタリー広場を越えると、車のスピードを落とした。  落合の部屋は四階にあった。新坂は、フィリップを抱きかかえるようにしてエレベーターを降りた。長い廊下。その突端の部屋から、ふたりの男が出て来た。両方とも、背の高い、身なりのいい紳士だった。 「騒いだりするんじゃないぞ」新坂はフィリップに小声でささやいた。  男たちと擦れ違った。銀縁眼鏡をかけた男の方がちらっと新坂を見た。視線を逸《そ》らす。  落合の住まいは、今しがた、男たちが出てきた部屋だった。新坂は、後ろを振り返った。だが、廊下には、もう人影はなかった。  ブザーを鳴らす。落合はドア・スコープで相手を確かめたらしく、黙ってドアを開けた。  新坂は、フィリップの肩をぐいと押した。 「一体、どうしたんだ。突然……」落合が言った。  申しわけ程度の玄関ホール。左が寝室らしく木製のドアが閉まっていた。正面に格子の入ったガラスのドアがあった。  落合は半開きになったそのドアを大きく開けた。新坂は、フィリップを先に中に入れ、その後に続いた。  天井の梁《はり》が剥《む》き出しになった部屋だった。キッチンと居間の間には仕切りはない。  奥にふたり掛けのラブ・チェアーがある。新坂は、そこにフィリップを座らせた。 「友人が来ていたのか」 「ああ。ボルドー時代に知り合った友人が、ちょっと寄ったんだ。ところで、この男は?」  新坂は、絨毯の敷かれた床に腰を下ろし、懐に入れていた拳銃とナイフを取り出した。 「こいつが、情報をもらした張本人。フィリップ・ブラッサールだ」 「なるほど」 「ダニエル・ソラルと飯を食っていた女は、こいつの母親だ。見張っていてくれ。俺はクタクタなんだ」  新坂は、床に大の字になり、煙草を吸った。 「で、こいつは、賭け札の隠し場所を吐いたのか?」 「いや。こいつは知らないらしい。仕方がないから、息子を切札にして母親に吐かせるつもりだ」  言葉の理解できないフィリップは、青白い不安げな顔を、ふたりに向けていた。 「お前、飯は食ったのか?」落合が新坂に訊いた。 「いや」 「缶詰のシチューがあるが食うか」 「そうだな、食っておくか」  新坂は、躰《からだ》を起こし、壁によりかかった。落合は手際よく缶詰を開け、中味を鍋《なべ》に移した。 「ダニエル・ソラルって男のことを話せ」新坂がフィリップに言った。 「そう言われても、僕は、よくは知らないんです。オフクロが僕に紹介した男ですから……」 「金回りはよさそうだが、解体業の他に何かやってるのか」 「いや、何もやってない。けれど、新しい事業を計画している、と言ってた。何でも七区にあるホテルが格安の値段で売りに出されていて、それを買うつもりらしい」  七区は高級住宅街の多いシックな地区。格安の値段といっても、そのホテルは相当するはずだ。ダニエル・ソラルが金を欲しがっている理由は、これで分かった。  落合がシチューとパンをキッチンのテーブルの上に置いた。新坂はそれを食べながら、質問を続けた。 「奴の付き合っている連中はどんな人間だ?」 「よく分からないけれど、あまり感じのよくない連中です」  食事を終えた新坂はビールの小瓶を一気に飲み干し、フィリップの横に座った。  時計を見る。午後十一時四十六分。  ふたりは、もう家に戻っているかもしれない。  ラブ・チェアーの横に電話があった。それをテーブルの上に置いた。 「母親に電話をかけろ。例のことがバレて、捕まってると言うんだ」 「い、嫌だ!」フィリップがのけぞった。「オフクロを巻き込まないでくれ」 「馬鹿を言うな。お前の母親は、プレジャンのブツを奪った仲間だぞ。もうとっくに、自ら巻き込まれてる」 「何でもするから。オフクロだけは、そっとしておいてくれ。お願いだ」  新坂は、フィリップの胸ぐらをつかみ、ビンタを食らわした。 「さっき言ったことを伝えたら、俺に代われ」  右手でフィリップの胸ぐらをつかんだまま、新坂は受話器を外した。 「さあ」受話器をフィリップの目の前にかかげた。  フィリップのボタンを押す手が震えていた。  十五、六回、コール音が鳴ったが、誰も出ない。ふたりは、まだ夜遊びをしているらしい。 「クソ」新坂は低くうめいて、受話器を置いた。  と、その瞬間、フィリップが新坂の頬にパンチを入れ、戸口に向かって走り出した。落合がさっと回りこんで、戸口を塞《ふさ》いだ。フィリップが体当たりを食らわした。だが、非力なフィリップ。落合は、半歩、右足を引いただけで、逆にフィリップを突き飛ばした。  新坂がフィリップの襟首《えりくび》を掴《つか》まえ、後ろに倒した。壁際に積まれてあった雑誌がバタバタと倒れた。  フィリップの呼吸が激しく乱れていた。  電話が鳴った。新坂は床に置いてあったナイフを取り、フィリップの首筋につきつけた。 「声を出すと、掻っ切る」  落合が受話器を取った。 「やあ、久し振り。……それは……明日の方がいいなあ……。飯でも食いながら、相談しようぜ……。もっと、場所が悪くてもいいから、安い出物を探そうぜ……」  新坂の周りには、雑誌が散乱していた。その中にミシュランの地図が混じっていた。ノルマンディー、ドーヴィル近辺の地図。赤い×印が五個、広範囲にわたってつけられていた。  落合が受話器を置いた。新坂は再び、フィリップをラブ・チェアーに座らせた。 「この間、話した店舗物件、やはり、諦めた」落合は散らばった雑誌を拾いながら言った。「いっそのこと、ノルマンディーの田舎《いなか》にでも、日本でいうペンション風の建物を建てようかと思ってるんだ」  新坂は、落合の話をほとんど聞いていなかった。早くエブリーヌと連絡を取りたい。そのことしか頭になかったのだ。  フィリップは頭を抱え、蹲《うずくま》っていた。  零時十五分。もう一度、フィリップに電話をかけさせた。  相手は、すぐに受話器を取った。新坂は付属のレシーバーを取り、会話の内容を聞いた。 「ボ、ボン・スワール、ダニエル」 「よう、フィル……今頃どうした?」しゃがれた明るい声。  何となく�メリュジーヌ�号を襲ったボス格の男の声に似ているような気がした。 「母はいますか」 「ちょっと待て」  母親はすぐに受話器を取った。 「……フィリップ、どうしたの、こんな時間に。今日、ダニエルの馬がロンシャンでまた勝ったのよ。すごいでしょう」 「あ、あのう、母さん、ダニエルに聞かれてないね」 「大丈夫。でも……」母親の声が曇った。 「僕、捕まってるんだ、例の故買屋に。もうバレてるよ、ダニエルのやったこと」  母親は一瞬、黙った。  新坂は受話器を取り、低い声で「アロー」と言った。 「あんたの息子を預かってる。ダニエル・ソラルに分からないように出て来い」 「ど、どこに行けばいいの」 「そうだな、リュテス闘技場を知ってるか。あんたの家から目と鼻の先にある。そこに今から来い。おれの友達が、あんたの息子を預かってる。ダニエルに知らせたら、どうなるか分かってるな」 「ハハハ……。じゃ、すぐに行くわね、フィリップ」  突如、母親は芝居を始めた。電話の近くにダニエル・ソラルが現れたらしい。 「その調子だ、マダム。零時半にリュテス闘技場だぞ」 「しかたのない子ね。すぐに行くわよ」  新坂が受話器を置くと、フィリップが目を真っ赤にし、新坂にすがりついた。 「オフクロには、ひどいことをしないでくれ」  新坂はフィリップを無視し、立ち上がった。 「こいつを頼むぜ」 「大丈夫だ。お前みたいに隙《すき》は見せないよ」  新坂は拳銃《けんじゆう》だけを懐に収め、落合の部屋を出た。     16  リュテス闘技場は、パリには極めて少ないガリア・ローマ遺跡のひとつである。  カルチエ・ラタンの外れに、ひっそりと佇《たたず》んでいるこの闘技場が、新坂は昔から好きだった。  賭けに負けて歩いて家に戻る時、よくここに来て、円形の階段席に腰を下ろし、疲れを癒《いや》したのだ。  新坂は車をモンジュ通りに止め、歩いて闘技場に通じている路地に入った。  フィリップの母親はすでに、闘技場に来ていて、緩やかな弧を描く階段席を、右に左に、動き回っていた。  新坂は辺りの気配を窺《うかが》いながら、母親に近づいた。 「フィリップは?」エブリーヌが訊《き》いた。  歳のわりには、派手な化粧をした顔に、不安が波打っていた。 「元気にしてる、今のところは。そこに腰を下ろして」  エブリーヌは、言われた通りにした。 「ダニエルに、気づかれなかったろうな」 「大丈夫よ。あの子が、モンパルナスでスリにあって困ってる、と言って出てきたわ。面倒ばかりかける子だから、ダニエルはまったく疑っていないわ。ね、お願い。あの子をすぐに返して」 「あんた次第だよ」 「あの子を、返してくれるなら、私、何でもするわ」 「そう言ってもらえると、話が早い」  新坂はエブリーヌの後ろに回った。 「奪ったブツは、もう捌《さば》けたのか」 「いえ。まだよ。ニースで試しに何枚か使っただけ。買い手との交渉がうまく行ってないのよ」 「残りのブツはどこに隠してある」 「それは、私、知らないのよ。本当よ、信じて」  エブリーヌが振り向いた。大きな目が涙にうるんでいた。 「じゃ、隠し場所を探れ」 「そんなこと無理よ、できないわ。あの人、とっても用心深いから……」 「二日待つ。その間に探り出せ。さもないと、フィリップだけじゃない。あんたも、あんたの男も死ぬ。俺がプレジャンにことの真相を話したら、どうなるかぐらい想像がつくだろう」 「分かった。何とかやってみるわ」 「ダニエルが首謀者なのか、それとも、奴を動かしている人物がいるのか?」 「そんな人、誰もいないわ。息子から聞いた話をダニエルに教えたら、彼は、自分にも偽造賭け札を横流ししてくれって、フィリップに頼んだわ。でも、フィリップは、プレジャンが怖いから、絶対に嫌だと断ったの。賭け札を作るための原料は、プレジャンのところから回って来るの。だから、どれくらいの量の賭け札が出来上がるか、プレジャンに分かってしまうのよ」 「それで、出来上がった物を横取りすることにしたのか?」 「そうよ」 「フェルナン・プレジャンがギャングだということは知っていたんだろう」 「私は知らなかったけど、ダニエルは知っていたわ。私、そんな男の持ち物を横取りするなんて、止めた方がいいって言ったんだけど、彼は聞いてくれなかった。ギャングの物を横取りする方が、サツに訴え出られないから、かえって好都合だなんて言って……」 「ダニエルの仲間は何人ぐらいいるんだ?」 「五人よ」 「どんな奴等なんだ」 「ダニエルには前科があるのよ。ブレストで、強盗をやって捕まったことがあるの。彼等は、ダニエルの刑務所仲間よ」 「俺を襲った現場に、ダニエルはいたのか?」  エブリーヌは弱々しくうなずいた。  ジャックを撃ち殺したのは、ダニエル・ソラルだったのだ。新坂の脳裏に、首から血を噴き出して死んで行ったジャックの姿が浮かんだ。新坂の鼓動が高鳴った。しかし、五十をすぎた女に怒りをぶつけても仕方がない。新坂は、大きく深呼吸をして、彼女の前に立った。  エブリーヌが躰《からだ》を強張《こわば》らせた。 「奴は、誰かにつけられているようだ、とあんたに洩らしたことはなかったか? 二日ほど前の話だが」 「いいえ」  新坂は、短い溜息《ためいき》をついた。 「二日後の夜十時、またここに来い。いいな、マダム」 「息子は?」 「それまで俺が預かる」  そう言い残して、新坂は階段席を、ゆっくりと降りて行った。     * 「オフクロは……」新坂の顔を見ると、フィリップはそう言って立ち上がろうとした。  落合が、その肩をぐいと押した。 「お前がおとなしくしていれば、彼女には何もしない」 「賭け札の隠し場所は分かったのか」 「いや。彼女も知らないんだ。だが、何とか探り出すと言っていた。それまで、こいつをここに預かってくれないか?」 「ここに?」落合が、迷惑そうな顔をした。 「俺のところは、何かとヤバイ。退屈な役目だが、俺が頼める人間は圭さんしかいないんだ」 「俺は、明日、出かけなきゃならない」 「終始見張っていることはない。なんなら、昼間は、俺がここに来てもいい」 「しようがねえな。分かったよ。縛って、物置にでも押し込んで置くよ」 「二日間だけだ。よろしく頼むぜ」  落合は、一杯飲もうと新坂を誘ったが、彼は断り帰宅した。疲れていたのだ……。  アパートのドアを開けた途端、電話のベルが耳に飛び込んできた。新坂は部屋に駆けこむと受話器を取った。 「俺だよ」相手はツェリンスキーだった。かなり酔っているらしい。「ちょっと、出てこないか」 「疲れてるんだ」 「じゃ、俺がそっちに行く」 「なぜ、俺の捜査が中止になったか、分かったのか」 「ああ、だから、飲んでいるんだ。出てきなよ、�彫像《スタチユ》�」 「どこにいる……」 「サンジェルマン・デ・プレのパブだ」  新坂はツェリンスキーに会うことにした。捜査が打ち切られた理由。新坂はおおいに興味があった。  サンジェルマンには、二十分足らずで着いた。  ツェリンスキーは、カウンターにいた。白い顔が真っ赤だった。 「�彫像《スタチユ》�、よく来てくれたな」ツェリンスキーは、新坂の肩を軽く叩いた。  生ビールを注文する。警視は黒ビールを飲んでいた。 「それで、ツェリンスキー、なぜ、俺の捜査が中止になったんだ」 「お前と、ふたりで酒を飲むとは思わなかった。お前も、俺とジョッキを合わせるなんて想像もしなかったろう」  上気した顔がにっと笑った。 「俺は、疲れているのに、わざわざ出てきたんだぜ。早く話せ」 「上司がやっと、真相を打ち明けた。だが、お前には、しゃべらん。しゃべれんのだ」  新坂は、ジョッキをカウンターに置き、ツェリンスキーを睨《にら》んだ。そして、財布を取り出した。その手をツェリンスキーが握った。 「待て。もう少し、俺に付き合え」  弱々しい口調。ツェリンスキーのこんな態度を見るのは、新坂は初めてだった。 「ローマンヴィルのジプシーが殺されたのは聞いたか」  新坂は財布をしまい、ツェリンスキーを睨んだ。 「新聞で読んだ」 「それだけか?」 「あの事件が俺に関係があるって言うのか」 「お前はあそこのジプシーのブツを捌《さば》いていた。俺の調べたところによると、お前は、ピエロという渾名《あだな》のあの少年と親しかったって話じゃないか」 「探りを入れるために、俺を呼んだのか?」 「俺は、お前の捜査から外された、と言ったろう」  新坂はちらっとツェリンスキーを見た。 「あの事件の捜査は進んでいるのか?」 「興味があるらしいな」 「ぐちゃぐちゃ言わずに、質問に答えろ、ツェリンスキー」 「何の進展もない。少年を殺したのは三十八口径の銃。少年の乗っていたソレックスは、バスティーユで見つかった。俺の知ってることはそれくらいだ」 「あんたは、何の魂胆があって俺を呼び出したんだ?」 「何の魂胆もない。ただ、お前と無性に酒が飲みたくなった」ツェリンスキーはジョッキを一気に空け、お替わりを頼んだ。「お前は、なぜ犯罪者になった」 「なぜ、あんたは警察に入った」  ツェリンスキーが、口許《くちもと》に薄笑いをうかべた。 「国籍がフランスでも、ポーランド人ということには変わりない。移民の子は、自分の確固たるポジションが、この国で欲しかった」 「ポジションの作れない移民は、犯罪者になるか……」 「お前は移民じゃない。いつでも、故郷《くに》に帰れる。いい気なもんだ。そんな奴が、ここで悪さを働き、ぬくぬく暮らしているんだから」  新坂もお替わりを注文した。 「もう一度、訊く。なぜ、俺の捜査が中止になったんだ」 「駄目だ。それだけは言えん」  新坂は、注文したばかりのビールをそのままにして、出口に向かった。  背中でツェリンスキーの声がした。 「�彫像《スタチユ》�、お前の命も危なくなるかもしれん。気をつけろ。俺は、お前の死体を捕らえても、何も面白くない」  新坂とツェリンスキーのやり取りを聞いた客たちが、新坂の顔を興味ぶかげに見つめていた。     17  翌日は、これといって、やるべきことはなかった。エブリーヌから連絡が入るまでは、どうにも身動きがとれない。  午前中、�ピガールのドン・ジュアン�から電話がかかって来た。予期していたことだ。 「賭け札を奪ったのは、フィリップだったのかね」 「何の話だ?」 「フィリップは昨夜、島を出たっきり、父親の会社にも行っていない。ひょっとしたら、君がどこかに連れ去ったんじゃないかと思ってね」 「フィリップが、あんたのブツを奪った奴なら、今ごろ、あんたに報告を入れてますよ」 「さあ、どうかな、それは。賭け札を見つけ出せない君が、私と対抗するために、切札のフィリップを拉致《らち》したとも考えられるからね」 「あんたは、奴をまったく疑ってないんですか?」 「奴のような小心な男が、わしを裏切れる訳がない」 「小心だからこそ、裏切るって場合もありますよ」 「まあいい。あと五日だ。結果を愉しみに待ってるよ」�ピガールのドン・ジュアン�は笑いながら、そう言った。 �ピガールのドン・ジュアン�の態度が解せなかった。賭け札を取り戻したいだけではなく、窮地に追い込まれた新坂を見て、愉しんでいる。そんな感じがしてならないのだ。  なぜだ。何か恨みでもあるのか。新坂は、ひとりで何度も首をかしげた。  昼間、落合のアパートに行った。落合が出かけている間、フィリップを見張るのだ。  フィリップは、もう哀願したり涙を流したりはしなかった。ほとんど口を利かず、食物をあたえても、あまり食べなかった。  夜は、見張りを落合に任せて、アパートに戻った。午後十一時すぎに、電話が鳴った。 「�彫像《スタチユ》�?」  声を聞いて新坂の胸が高鳴った。相手はトラヴィアータだった。 「�彫像《スタチユ》�、お願いがあるの」かなり切迫した声。 「何かあったのか?」 「いえ」 「それじゃ……」 「今から、すぐに、ランブイエにある修道院に行ってもらいたいの」 「修道院だって?」 「ええ。そこに行って、シスター・マリー・クリスチーヌという人から渡される物を取って来て欲しいの」  新坂は一瞬、黙ったが、トラヴィアータの申し出を断ろうかどうしようか迷ったわけではない。一体、彼女は何をやっているのか疑問に思っただけである。惚れた女の願い事。彼は、はなっから引き受ける気でいた。 「分かった。しかし、詳しい地図がないと、とても、行き着けないぜ」 「パリ郊外の地図を持ってる?」 「ああ、ちょっと待ってくれ」  新坂は書棚から地図を取り出し、ランブイエのページを開いた。 「教えてくれ」  トラヴィアータは、詳しく説明した。 「……修道院の前に、目印としてトラクターを一台、停めさせておくから、必ず分かるわ」 「それで、引き取った物は、あんたのところへ持って行くのか?」 「いえ。あなたのところにまっすぐ、持って帰って」 「物はなんだい?」 「黙って、取ってきて。そして、この話は誰にもしないで」  受話器を置いた新坂は考えた。  シランスが、葬儀屋に封筒を持って行かせ、トラヴィアータが、修道院から物を取って来てくれ、と頼んでくる。  あのふたりは、一体、裏で何をやっているのだろうか。  ツェリンスキーの最後の言葉が脳裏に甦《よみがえ》った。命が危ない。どうやら、自分の捜査が中止されたのも、あのふたりに関係があるらしい。  新坂は用心のために、拳銃を持って出かけることにした。  ランブイエは、パリから西南に五十キロばかり行ったところにある街だ。  飛ばせば、一時間以内に、目的地につけるだろう。  新坂はオルリー空港に向かう高速に乗った。道は空《す》いていた。後方に一台、車が走っているだけだ。気になった。新坂はアクセルを踏んだ。すると、その車も同じようにスピードを上げた。  新坂は、高速が二叉《ふたまた》になっているところまで一気に飛ばし、ハンドルを左に切った。そして、オルリー南空港《スユド》の正面玄関を通過し、ほとんど、車の影すらまばらな、無人のパーキングに飛びこんだ。思いきり、ハンドルを切る、アウディを一回転させた。そして、車のドアを開け、拳銃を構えた。  追ってきた車はカマロだった。カマロは、パーキングの入口で急停車した。新坂が拳銃を構えているのが見えたらしい。カマロはタイヤを鳴らしてバックし、そのまま走り去った。  気をつけて車を出す。尾行車の姿はまったくなかった。  シャルトル方面に向かう高速に、再び乗り、アブリという小さな街の手前で降りた。そして国道一〇号線を左に曲がった。  道草を食ったせいで、予定よりも三十分ほどランブイエの街に入るのが遅れた。  田舎風の家並の間に、ぽつりぽつりと新しい装いのアパート群が見受けられた。  トラヴィアータの口頭での説明を控えたメモを、赤信号になる度に確認しながら、街を少し抜けた。三本目の道を右に曲がる。舗装されていない真っ暗な通り。新坂は、この道でいいのかどうか、いささか自信をなくした。ヘッドライトを立て、ゆっくりと進む。  かすかに、左側にトラクターらしきものが停まっていた。  その周りは、二メートルほどの高さの石壁だった。  鉄板で作られた大門は閉まっていた。ベルを鳴らした。遠くで扉の開く音がした。 「トラクターは見つかりましたか?」甲高い声が聞こえた。  どうやら、相手を確認する意味で、そう訊いたらしい。 「ええ。置いてもらわなかったら、通りすぎたかもしれない」  新坂の声を聞くと、大門が軋《きし》みながら、開いた。 「車を中へ」  出てきたのは、若いシスターだった。  中に入ると、シスターは、ポケットからウォーキー・トーキーを取り出し、「いらっしゃいました」とだけ告げた。  前庭の奥に、やはり、石で造られた三階建ての建物があった。すべての窓に鎧戸《よろいど》が下りていた。  新坂は、観音開きの戸が大きく開いている広い部屋に通された。木製の長|椅子《いす》がきちんと並べられ、壁には聖母画《イコン》が飾られていた。  やがて、小柄な、八十くらいのシスターがふたりの若いシスターを伴って現れた。 「私がシスター・マリー・クリスチーヌです」老シスターは、丸眼鏡の奥から、新坂をじっと見つめた。その眼鏡は老眼鏡らしく、シスターの目が異様に大きく見えた。 「トラヴィアータの使いの者です」 「どうぞ、おかけ下さい。よろしかったら、リンゴのタルトはいかがですか」 「はあ……しかし……」  新坂が口ごもっていると、老シスターは、「タルトをお持ちして」とふたりのシスターを見ずに指図した。 「私たちのところのリンゴのタルトは、他では味わえない、格別なものですの」  老シスターは、そう言って優しく微笑んだ。 「トラヴィアータ……いや、本名は何と言うのか知りませんが、彼女とはどんな関係なんです?」 「質問は禁物です。あなたは、トラヴィアータという女性に、とても信頼されているようです。その信頼を裏切らないで下さい」  タルトを載せた皿が、新坂の前に置かれた。 「運んでいただきたいものを持って参ります。ゆっくりとタルトを味わっていて下さい」  そう言い残すと、シスター・マリー・クリスチーヌは、若いシスターを伴って部屋を出て行った。  別に食べたくはなかったが、新坂はタルトに手をつけた。  半分ほど食べた時、戸口に人の気配がした。  振り向いた。框《かまち》にすがるようにして、ひとりの老人が裸足《はだし》で立っていた。パジャマ姿。シャツの裾が半分だけ、表に顔を出している。目の下が、垂れ下がらんばかりに膨れ、皺《しわ》だらけの顔は、青白く、数年間、太陽を浴びたことがないみたいに、生気がなかった。髪はこめかみの辺りが白いだけで、あとは禿げていた。  女ばかりの修道院になぜ、男が……!  新坂は、唖然《あぜん》として老人を見つめた。 「お、お前は誰だ?」老人の顔が恐怖で脅えていた。  新坂が答えに窮していると、階段を駆け降りて来る足音が聞こえた。 「勝手に、お部屋を出られては困ります」  ふたりのシスターが現れた。骨太の背の高いシスターが、老人の躰《からだ》を後ろから抱きかかえた。  シスター・マリー・クリスチーヌが戻ってきた。彼女は、老人の前に立ちはだかった。 「お部屋に戻って下さい」  中年のシスターが老人をかかえたまま、後ろに下がった。立っているのがやっとという老人は、少し抵抗を見せたが、まったく歯が立たなかった。ずるずると引きずられて行く。 「ジャ、ジャン・フランソワは、ど、どうした?」老人が言う。 「お話はあと。今は、お休みになって下さい」老シスターが静かに答えた。  老人の姿を見送るように、老シスターは、新坂に背中を向け、しばらく、その場に立っていた。  二階で、ドアの閉まる音が聞こえ、続いて鍵のかかる音がした。  シスターが新坂の方に躰を向けた。 「どうです? 私たちのタルトは、絶品でしょう」  水を打ったような静けさの中に、シスターの落ち着いた声が響いた。 「ええ。とってもうまかった」  若いシスターが、戸口に現れた。大きなトランクを両手で持っている。その腕の筋がピーンと張っていた。相当、重い荷物らしい。 「そこに置いて下さい。ありがとう」シスター・マリー・クリスチーヌが言った。 「運ぶ荷物は、それだけですか?」 「ええ」  新坂は立ち上がり、シスターの横を抜けてトランクに近づいた。  擦れ違いざま、シスターが静かに言った。 「ここで見たこと聞いたこと、すべて忘れられますね」 「今度、またリンゴのタルトを食べに来ますよ」 「いつでも、どうぞ」  トランクは、相当、年代物だった。一世紀くらいの歴史を知っているような貫禄《かんろく》がある。果たして、トランクは重かった。  シスター・マリー・クリスチーヌは通りまで見送りに出てきた。老眼鏡の奥の大きな目が、通りの様子をうかがった……。  アパートに戻ったのは二時を少し回った時刻だった。エレベーターを下りた新坂は、一瞬、立ち止まった。 「トラヴィアータ……ずっとここに?」 「着いたのは十分ほど前よ。シスターから電話があったから、あなたが帰る時刻は、予想がついたわ」  新坂は、トラヴィアータを中に通した。トランクは、居間の床の上に置いた。 「感謝するわ、�彫像《スタチユ》�」トラヴィアータは、居間の戸口に立ったまま礼を言った。  彼女は、ペーズリー柄の茶色いワンピースを着、太く黒いスウェードのベルトをしていた。館《やかた》にいる時よりも地味だが、かえって服装が地味な分だけ、彼女自身の派手さが強調されているような気がした。 「まあ、座って」新坂は煙草に火をつけながら言った。  トラヴィアータは、ソファに腰かけた。新坂は、酒を勧めたが、彼女は断った。  自分のためだけにバーボンのオン・ザ・ロックを用意し、彼女の横に座った。 「修道院に行く時、カマロに尾行された」 「それで……」トラヴィアータが険しい顔を新坂に向けた。 「心配はいらん。途中で追っ払った。相手が何者か、あんたは知ってるんだろう?」  トラヴィアータは返事をしなかった。  新坂は苦笑した。 「それで、このトランクをどうする気なんだ?」 「あなたに預かってもらいたいの。どこか、誰の目にも触れないところに隠しておいて欲しいのよ」 「いつまで?」 「分からない。ともかく、私が引き取りに来るまで……」 「中味をあらためなくてもいいのか?」  トラヴィアータは、首を横に振った。 「あんたは、一体、何者なんだ。スパイか何かなのか」 「何者でもないわ。本当に、何者でもないの」 「トラヴィアータ」新坂は笑った。「俺を信用して、このトランクを取りに行かせたのなら、秘密を打ち明けてくれてもいいだろう」 「それはできない」 「前にも話したが、故買屋�彫像《スタチユ》�の捜査は中止になった。上司からの命令でな。おそらく、あんたと関係があると、俺は思っている。あんたと……」そこまで言って、新坂は口ごもった。 「私と何?」トラヴィアータのブルーの目に感情が動いた。 「修道院で、妙な老人に会ったよ。このトランクと同じくらいに、年老いた老人にね」  トラヴィアータの顔から血の気が引いた。 「私にも、お酒いただけるかしら?」  新坂はもうひとつグラスを用意した。 「その老人は、シスターたちに、無理矢理、二階に連れて行かれた。その際、ジャン・フランソワという名前を口にしていたよ」 「ゲスな人ね、あなたって! 見損なったわ。秘密を嗅ぎつけた気になり、それをちらつかせて喜ぶなんて……」  新坂は持っていたグラスをテーブルの上に置いた。 「ふざけるな。興味本位で、あんたの秘密を探る気なんかない。俺は……」 「俺は何?」 「いや、いいんだ」新坂はトラヴィアータから目をそらせた。 「はっきり言って……」 「分かってるだろう。今さら口に出して言わなくても」 「それでも言って、�彫像《スタチユ》�」トラヴィアータは、新坂の両肩に手を置き、彼をじっと見つめた。 「よしてくれよ。俺は、あんたとシランスのことを知ってるんだ」 「し、知ってるって何を」トラヴィアータが新坂の肩をぎゅっとつかんだ。 「偶然、見ちまったんだよ。朝方、あんたの家から出てくるシランスを」  トラヴィアータの手が静かに、新坂の肩を離れた。 「単なる、恋人同士だというだけじゃなく、あんたらは、一緒に何かを企《たくら》んでいる仲間でもあるんだろうが……」 「確かに、シランスは、私の恋人よ」  分かっていることだったが、トラヴィアータの口から、シランスとの関係を聞いた新坂は、やはり、胸が痛んだ。顔を引きつらせまいと努力したが、成功したかどうかは分からない。 「シランスの命令であんたは動いているのか?」 「これには、事情があるのよ。シランスも私も、あなたを利用しようと思ったんじゃないわよ。これだけは信じて!」  新坂は、フーッと溜息《ためいき》をついた。 「心配いらんよ。俺は、誰にももらさない。シランスのことも、今夜のことも。さあ、もう帰ってくれ」  しかし、トラヴィアータは、少しも動かず、放心したように正面を見つめていた。 「私……」言葉が途切れた。  沈黙が流れた。新坂は膝《ひざ》をポンと叩《たた》き、立ち上がろうとした。  と、その時、トラヴィアータが新坂の腰に手を回し、胸に顔を埋めてきた。  新坂の動きが止まった。 「抱いて」  新坂は、トラヴィアータの顔を軽く上げ、キスをした。激しいキスだった。トラヴィアータには、まったく躊躇《ちゆうちよ》するところはなかった。ソファから、抱き合ったままふたりの躰が床にすべり落ちた。  新坂は、バーボンの瓶が倒れるのもかまわず、テーブルを向こうに押しやった。  下になったトラヴィアータが、潤んだ目で、新坂を見た。 「愛してるって言って」  そう言われても、すぐには言葉が出てこなかった。 「お願い、言って」  トラヴィアータは、すがるような口調で繰り返した。 「愛してる」  新坂は、生まれて初めて、その言葉を口にした。心の中で、音をたてて崩れて行く何かを感じた。 「私、あなたと一度だけ、こうなりたかったの」トラヴィアータは、掠《かす》れ声で言い、再び、激しく新坂の唇を吸った。     18  トラヴィアータは、夜明けとともに新坂のアパートを出て行った。  新坂はなかなか寝つかれなかった。 �あなたと一度だけ、こうなりたかったの�  トラヴィアータのその言葉が、気になってしかたがなかった。  表向きは、極めて社交的で、物に動じない女なのに、なぜ、あんなに悲壮な言葉を吐いたのか理解できない。悲壮感に酔うような年齢でも、またタイプでもないのに……。  新坂は、ますますトラヴィアータの秘密に興味を持った。そして、そのことを考えると、自然に、シランスのことが頭をよぎった。  あの謎《なぞ》めいた言葉は、シランスとは別れないという意味に取れる。自分はどういう態度を取るべきなのか。新坂はさんざん迷った。だが、何の結論もでなかった……。  目が醒《さ》めると、午後の三時だった。どんよりとした雲が垂れこめた、肌寒い日。新坂は、トランクを持って、ポンピドー・センターの脇《わき》を走るランビュトー通りに向かった。  偽装結婚の相手、ブリジットの事務所兼住まいがその通りにあるのだ。  月末、新坂は金を届けるのである。その用を果たし、ついでにトランクを預かってもらう腹づもりなのだ。  ブリジットは、狭い事務所で、ひとりタイプを打っていた。  普通の夫婦のように、頬《ほお》に二度、キスをした。香水が変わったのに、新坂は気づいた。 「どうだい、商売の方は?」新坂は訊いた。 「ここのところ好調よ」  どちらかというと地味な暗い感じの女だったが、ここ二、三か月、心なしか表情が明るくなった。そして、美容院に通う回数も増えたらしく、パーマの伸びきった髪をだらしなく下げているような姿は見られなくなった。  新坂は金の入った封筒を机の上に置いた。  ブリジットは黙って、その封筒を受け取ると、金庫にしまった。 「このトランクをしばらく預かっておいてくれないか」 「いいけど、中味は何?」ブリジットの顔が少し曇った。 「俺の家に置いておくと、まずいものだが、変なものじゃない。あんたには、いっさい迷惑をかけないから、黙って預かっておいてくれ」 「二階の物置に入れておくわ」  同じ建物の二階に、ブリジットの住まいがあるのだ。 「それでいい」新坂は微笑んだ。 「私も、あなたにお願いがあるの」 「何だい?」  ブリジットは煙草を取り出し、ゆっくりと吸った。 「離婚して下さらない」  新坂はしばし、ブリジットの顔を見つめていたが、やがて大きくうなずいた。 「男ができた。そんな予感がしていたよ」 「同じような仕事をしている人でね。向こうにも子供がいるんだけど、うまくやって行けそうなの」 「分かった。君の好きなようにしよう」 「ありがとう」ブリジットの顔がぱっと明るくなった。  ブリジットのこんな笑顔を見たのは初めてだった。 「俺は、今、大きな仕事をかかえている。それが終わってから、手続きをしてもかまわないか? そんなに待たせることはしないから、心配はいらない」 「お任せするわ」  新坂は、静かに椅子《いす》を引き立ち上がった。 「あなたのおかげよ……何とか倒産しないでこの会社を維持できたのは」 「礼を言うのは、こっちの方だ。フランスの人権擁護をおおいに利用させてもらったんだからな」 「秘密は一生守る。心配しないで」 「君を信頼してるよ」  そう言い残して、新坂はブリジットの事務所を出た。  協議離婚でも、フランスでは判を押せばすむというものではない。きちんと弁護士を立てて、最低半年ぐらいはかかるのだ。  その半年のうちに、フランスにいる立場を明確にしておく必要がある、と考えると新坂は気が重くなった。  新坂は、落合に電話を入れ、フィリップの様子を訊いた。異常はなかった。  気持ちが急《せ》く。早く、�ピガールのドン・ジュアン�とのトラブルにケリをつけたい。だが、エブリーヌから情報を得るまでは、おとなしくしているしかなかった。  夕食は、アパートの近くのピザ屋ですませ、夜は、家に閉じこもっていた。  テレビでスティーブ・マックイーンの『シンシナティ・キッド』をやっていた。ポーカー専門の賭博師《とばくし》の話。なかなか見応《みごた》えがあった。  ちょうど、映画が終了した時、チャイムが鳴った。  音をたてないようにして、ドアに近づき、スコープを覗《のぞ》いた。 �ピガールのドン・ジュアン�の子分、カルロスとリュックが立っていた。  ドアを開けた。カルロスが涎《よだれ》のたれそうな笑みを浮かべた。 「期限まで、まだ三日以上ある。出直してきな」 「ボスが呼んでいる。一緒に来てもらおうか?」 「用は何だ?」 「ボスが呼んでる。それが用だよ」カルロスが肩を竦《すく》めて、また笑った。 「分かった。すぐに行く。表で待ってろ」  新坂はドアを閉めようとしたが、カルロスの黒い手袋を嵌《は》めた手が、それを遮った。  新坂が寝室に向かうと、赤毛のリュックがついて来て戸口に立ち、新坂の様子を窺《うかが》っている。  新坂が連れて行かれたのは、この間のワイン・ショップだった。  だが、前とは様子が違っていた。店の中には、他にふたり、�ピガールのドン・ジュアン�の子分らしい人相の悪い奴らがいた。  狭い階段を降りる。下からオペラが聞こえてくる。  地下二階に下り立った瞬間、新坂の目は中央の椅子《いす》に釘《くぎ》付けになった。  トラヴィアータが椅子に座らされていたのだ。天井を向いた顔に光が当たっている。ひどく殴られたらしく、右目の回りが黒ずみ、唇から血を流していた。  我慢できなかった。新坂は、闇《やみ》の中に微かに見える人影に向かって走り出した。だが、すぐに、カルロスとリュックに取り押さえられた。 �ピガールのドン・ジュアン�が、陰から姿を現した。 「その手枷《てかせ》に繋《つな》げ」�ピガールのドン・ジュアン�は、葉巻に火をつけながら、淡々とした口調で言った。  新坂は激しく抵抗したが、ふたりの男には太刀打ちできなかった。  壁に取りつけられた輪っかが両手首に嵌《は》められた。万歳をするような格好で、新坂は立っているしかなかった。 「彼女を殺したのか?」新坂は�ピガールのドン・ジュアン�を睨《にら》んで訊いた。 「まさか。君を殺してもトラヴィアータは殺さない。私の大事な宝だからね。しかし、私を裏切った罰は受けなければならない。可哀《かわい》そうだがね」 �ピガールのドン・ジュアン�は、昨晩、トラヴィアータが新坂のアパートに泊まったことを嗅《か》ぎつけたらしい。 「君も趣味がいい。トラヴィアータに目をつけるなんて」 「彼女を誘ったのは、俺だ。もういいだろう……彼女は家に帰してやってくれ」 「そんなことは、わしが決める。それよりも、わしの賭け札を盗んだ人間は分かったのか」 「……いや、まだだ」  新坂は一瞬、フィリップのことを話し、それと引き換えに、トラヴィアータに対する折檻《せつかん》を止めさせようかと考えた。だが、それは逆効果なのだ。フィリップのことを話してしまえば、おそらく、�ピガールのドン・ジュアン�は、ここで自分を殺すだろう。そうなれば、トラヴィアータを助け出せなくなる。 「君は真面目《まじめ》に探す気があるのかね。わしの大事なトラヴィアータを誘惑している暇などないはずだがね」 「俺は、皆を疑ってると言ったろう。あんたの賭け札を探すために近づいたんだ」 「賭け札の話は三日後に改めてしよう。それまでは、君の命は奪わない。だが、トラヴィアータとのことは、今から、ちゃんと礼をさせてもらうよ」  そう言って、�ピガールのドン・ジュアン�はカルロスを見、首を新坂の方に少し動かした。  カルロスが、新坂の前に立った。新坂を見つめたまま、上着を脱いだ。例によってニタニタ笑っている。上着をリュックに渡した。カルロスを蹴《け》ることは簡単だが、そんなことをすれば、かえってことが面倒になる。  恐怖が全身をかけ巡った。腹に力を入れ、顎《あご》を引く。  ソプラノの声が地下室に響き渡っている。新坂は、そのオペラの題名が何だったか考えた。だが、まったく思い出せなかった。 「やれ」�ピガールのドン・ジュアン�が低くうめいた。  と、同時に腹に一発食らった。息がつまった。自然に躰《からだ》が前に折れた。手枷《てかせ》についている鎖が揺れた。今度は顎にアッパーをくらった。後頭部が壁にぶつかった。 「あああ……」新坂は悲鳴に似た叫び声を上げた。  髪を引っ張られ、顔を無理やり、天井に向けさせられた。新坂の目の前に、�ピガールのドン・ジュアン�の顔があった。 「トラヴィアータの味はよかったかね。�彫像《スタチユ》�」 「…………」  カセット・デッキから流れているオペラの題名を急に思い出した。  モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』だ。 「答えるんだ、�彫像《スタチユ》�。トラヴィアータの味はよかったかと聞いているんだ」 「最高だったよ。あんたにはもったいない!」  全身の力を振り絞って叫んだ。  新坂の髪から手を離した�ピガールのドン・ジュアン�は、自分で新坂の鼻にパンチを入れた。呼吸が止まったような気がした。鼻から息ができないのだ。新坂は口を大きく開けて、喘《あえ》いだ。唇に鼻血が垂れた。  女のうめき声が聞こえた。トラヴィアータが意識を戻したらしい。 「トラヴィアータ」�ピガールのドン・ジュアン�が彼女に近づき優しげにささやいた。 「あ、ああ……」トラヴィアータがうめいた。 「もうお前には、何もしないよ」  トラヴィアータが悲鳴を上げた。新坂を見たのだ。新坂も、彼女をじっと見返した。 「いい子だ。そんな声を出さないで。すべて、これはお前が悪いんだよ。よく見ておくんだ、トラヴィアータ。�彫像《スタチユ》�の無様な姿を」  トラヴィアータは何か言おうとしたが、言葉にならなかった。 「�彫像《スタチユ》�、わしは、君が前々からトラヴィアータに言い寄りたがっていたのを知っておったよ。彼女を見る目つき、彼女の後を、わしに気取られないように追っかけて行く君の態度で分かった。だが、まさか、昨晩のようなことが起こるとは思ってもいなかったよ」  ようやく納得がいった。奪われた賭け札を取り戻そうとして、必死になっている自分を見て、奴が愉しんでいた訳が。�ピガールのドン・ジュアン�は、表向き好々爺《こうこうや》を装いながら、トラヴィアータを取り巻く男たちをじっと観察し、彼女に色目を使う男を見つけると、そいつに嫉妬《しつと》を抱き、憎しみの炎を燃やしていたに違いない。  仕事にドジったことは、奴にとっては、復讐《ふくしゆう》をする絶好の機会だったのだ。  シランスのことが脳裏をかすめた。奴は、本当のポーカー・フェイスだ。�ピガールのドン・ジュアン�にも見抜けなかったらしい。 「なぜ、分かったんだ。トラヴィアータを監視させていたのか」やっと声になった。 「とんでもない。トラヴィアータに監視をつけたことなど一度もないよ。何とも説明しがたいが、彼女は、わしと会った時から、人生を下りてしまっているようなところがあった。宝石をあたえても、家を買いあたえても、表面上は、嬉《うれ》しい顔をするが、どこか醒《さ》めていた。物質的なことだけではない。人間に対する愛情も、醒めているところがあった。むろん、わしに対する愛情も含めての話だ。そんな女が、わしを裏切るはずがないと思っていたのだ。どうやら、わしの勘は外れておったようだがね。君とのことが、分かったのは、ほんの偶然からだ。わしは、フィリップを誘拐したのは、君じゃないかと思ってね、昨日、君と電話で話した後、君のアパートを見張らせたんだ」  昨晩、アウディの後を追っかけて来たのは、�ピガールのドン・ジュアン�の部下だったのだ。 「�彫像《スタチユ》�、もう解放して欲しいだろう。だったら、�許して下さい�と泣いて謝るんだ」 �ピガールのドン・ジュアン�が憎しみをこめて言った。「さあ、謝れ!」  怒り以外の感情は、新坂の心から跡かたもなく消え去っていた。  笑い者にされてたまるか。殴りたければ殴るがいい。だが、絶対に謝りはしない。新坂は、顎《あご》を上げ、精一杯、�ピガールのドン・ジュアン�を睨《にら》んだ。  トラヴィアータが顔をくしゃくしゃにして泣き出した。 「まだ、痛めつけられたいらしいな、君は」 �ピガールのドン・ジュアン�が新坂に近づき、股間《こかん》を蹴《け》り上げた。  新坂の躰は壁に沿って揺れていた。 「謝って、早く、謝って……」トラヴィアータの声が、テノール歌手の歌声と共に耳に届いた。 「お前は、まだ懲りないようだな」�ピガールのドン・ジュアン�がトラヴィアータに向かって言った。「上の部屋で、二、三日、頭を冷やすんだ。リュック、トラヴィアータを連れて行け」 「嫌! 止めて!」トラヴィアータが叫んだ。  新坂は、何か言おうとしたが、声が出ない。 �ピガールのドン・ジュアン�が新坂に視線を向けた。「三日後に、約束を果たせない場合は、お前は死ぬ。逃げようなんて考えるな。どこへ逃げても、わしの手から逃れられん。たとえ、刑務所でも同じだよ。さあ、もう一発思い知らせてやれ、カルロス」 �ピガールのドン・ジュアン�の声が聞こえた瞬間、再び、腹に重いパンチを食らった。新坂はそのまま意識を失った……。  気がつくと、新坂は自分のベッドに横になっていた。  躰中が痛んだ。起き上がろうとしたが、無理だった。  サイド・テーブルの時計を見る。十一時二十七分。午前か午後かも見当がつかない。  窓に目をやった。カーテンの向こうが明るかった。どうやら、翌日の朝になっているらしい。  ゆっくりと手を顔に当てて、思い切って、鼻や頬を押してみた。激痛が走った。だが、熱もないし吐き気もしない。骨には異常はなさそうだ。手首が擦り剥《む》け、血だらけになっていた。口を閉じたり開いたりしてみる。  そうやっているうちに、少しずつ痛みになれた。躰を起こす。シーツのところどころが血に染まっていた。  やっとの思いでベッドに腰を下ろした。サイド・テーブルを支えに立ち上がる。歩く。ゆっくりと。壁と柱を伝って廊下に出た。水が飲みたい。燃えているかのように喉《のど》がヒリヒリしているのだ。  グラスを握った手に、まるで力が入らない。グラスが滑って床に落ち、割れた。  水道の蛇口に、口をつけ直接飲んだ。水を飲みこむだけで、腹の筋肉が痛んだ。  居間のテーブルの上に置いてあった手帳を取る。そして、シランスに電話を入れた。  シランスは、新坂がしゃべり出すまで、声を出さなかった。 「シランス?」 「ああ、君か……」 「トラヴィアータのことで、話がある。すぐに俺のところに来てくれ」 「君の方が、私のところに来い」 「行きたくても、俺は行けないんだ」 「怪我《けが》でもしてるのか?」 「まあ、そうだ。俺を信用しろ」 「分かった。すぐに行く」  受話器を置いた新坂は寝室に入り、隠しておいた残りの二丁の拳銃、現金、それに、非常時用に作らせておいた贋《にせ》の身分証を取り出し、小型のバッグにつめた。     19  正午少し前、シランスがやって来た。  シランスは、新坂の顔の傷をちらっと見たが、何も言わなかった。  ダイニング・テーブルの前に腰を下ろしたシランスは、ポールモールの箱を取り出し、ゆっくりと封を切った。 「トラヴィアータがフェルナンに監禁されている」新坂が言った。 「なぜ、君がそんなことを知っているんだ」瞬きを忘れた目が、新坂を見つめた。  新坂は、ソファに座った。 「俺は、一昨日、トラヴィアータと寝た」  シランスは、新坂から目をそらし、煙草に火をつけた。 「俺は、あんたとトラヴィアータが関係を持っていることを知ってる。だが、俺は……」 「トラヴィアータが君と寝たことを、フェルナンに嗅《か》ぎつけられたのか」 「そういうことだ。俺も、昨日の夜、フェルナンに痛めつけられた」 「どうして、君は解放されたんだね。それとも、逃げ出して来たのか」 「奴から預かった品物を、俺は何者かによって奪われた。それを、今日を含めて三日の間に探し出し、盗んだ奴をとらえることをフェルナンに約束した。それを果たせば、俺の命を助ける、と奴は言ってるんだ。奴は俺を弄《もてあそ》んで愉しんでいる。俺が必死でブツを探し、奴に届ける。そこで御苦労さん、と言う代わりに、俺を消す腹づもりらしい」 「トラヴィアータもひどいことをされたのか」 「ああ。だから、フェルナンがトラヴィアータを殺さないのは分かってるが、俺は彼女をフェルナンから奪う」 「君はトラヴィアータに惚《ほ》れたのか?」シランスが新坂を見た。  新坂は天井に目を向けた。 「ああ。その通りだ」 「トラヴィアータは、君には渡さない」シランスが抑揚のない声で言った。 「トラヴィアータもあんたと別れる気はないらしい。あんたらが、愛人関係以上のつきあいだということは、うすうす俺も気づいている。フェルナンから奪ったあとのことは、あんたらで決めてくれ」 「トラヴィアータの監禁されている場所は分かっているのか」 「ピガールにあるワイン・ショップの地下だ。俺とあんた、それに落合の三人で、今夜、そのワイン・ショップを急襲し、トラヴィアータを助け出す」 「その躰では無理だ。トラヴィアータのことは、私が何とかする」 「俺は、他人に、賭け札を張ってもらうようなことはしない。フェルナンと俺の勝負。そう思ってもらいたい」  シランスは、黙ってうなずいた。 「君は勝負強い男だから、負けはしないだろう」  新坂は、ショルダー・ホルスターをつけ、そこにマニューリンを差し込んだ。 「シランス、運転してくれないか。詳しい話は、落合のアパートでやろう」  道中、新坂は、尾行車に注意しながら、偽造賭け札のことや、フィリップを監禁していること、それから、今夜の十時にフィリップの母親に会うことなどを、かいつまんでシランスに教えた。 「偽造賭け札を奪還する必要は、もうないんじゃないのか」シランスが訊いた。 「いや。ダニエルという男は、俺の仲間をひとり殺した。そして、おそらく、もうひとりも殺《や》っているはずなんだ。カタをつけなきゃならないことがあるんだ」  落合のアパートには一時前に着いた。  落合は、シランスと新坂の顔を交互に見て、「な、何があったんだ」と訊いた。 「話はおいおいするよ。それより、フィリップは?」  落合は、物置の扉を開けた。手足を縛られたフィリップが、壁を背に座っていた。 「今夜までの辛抱だ。おとなしくそうやってるんだぜ」新坂は言った。  フィリップは、何度も小刻みにうなずいた。 「その傷はどうしたんだ」落合が、眉をひそめて新坂をのぞきこんだ。 「フェルナンにやられた。トラヴィアータが……」  居間に入った新坂は、フィリップに話を聞かれないようドアを閉めた。そして、事情を説明し、協力を頼んだ。トラヴィアータと寝たことを話した時、新坂はちらっとシランスを見た。だが、シランスはまったく表情を変えなかった。 「相手は、強力な組織を持つギャングだろう。とてもじゃないが、三人だけでやるのは無謀だぜ」 「ワイン・ショップに踏み込むのは、俺とシランスでやる。圭さんには、尾行と運転をやってもらいたいんだ」  新坂の計画はこうだった。  落合が、レンタカーでカルロスを尾行し、�ピガールのドン・ジュアン�と別れた後の奴の行き先を突き止める。そしてカルロスを捕らえ、ワイン・ショップに行く。撃ち合いになるのを、極力避けるには、すんなりワイン・ショップのドアを開けさせることが肝心なのだ。新坂がリュックではなくカルロスに狙《ねら》いを絞ったのは、昨夜の礼がしたかったからである。 「フィリップの母親の件はどうするんだ?」  落合が訊《き》いた。 「会うよ、予定通りに。カルロスは�ピガールのドン・ジュアン�が自宅に戻るまでは、トラヴィアータの館《やかた》にいるはずだ。エブリーヌの話を聞く時間は充分にある」  シランスは、いったん、自分のアパートに戻り、午後十一時に再び、落合の部屋に来ることになった。  新坂は、落合に電話付きの車を借りるように頼み、寝室に入った。躰全体が重い痛みに包まれていた。気力だけが頼りだった……。  午後八時半すぎ、目が醒《さ》めた。寝室を出ると落合の声が聞こえてきた。 「……そうだ。時間はかかるが、ゆっくり攻めればなんとかなるだろう……」  新坂が居間に入った。落合は、電話を切った。 「何が何とかなるだい」新坂が訊いた。 「例のレストランを開く件さ。十五区に結構、安い物件が見つかったんだ。もう少しネバれば、まだ値は落ちそうなんだ」 「ノルマンディーにペンションを作る話はどうした?」 「ノルマンディー……。ああ、あれはやっぱり地の利が悪いから止めにしたよ」 「金は足りるのか?」 「いや、その……まあ、何とかするさ」そう言いながら、キッチンに入った。「ステーキとサラダ、食うだろう」 「あんまり食いたくはないが、腹につめておかなきゃな」  落合は、ステーキを焼きながら、ベンツを借りたと告げた。 「賭け札を取り戻したら、圭さん、好きなだけ持って行ってくれ。こうなったら、もう賭け札は、フェルナンには渡さないから」 「トラヴィアータと盗まれた賭け札を奪還できたとして、その後はどうする気なんだ」 「先のことは、まったく考えていない。今は、トラヴィアータを救い出すことで頭がいっぱいだ」  落合が、料理をキッチンのテーブルの上に置いた。 「なぜ、シランスに声をかけたんだ?」  新坂は一瞬黙った。そして、つぶやくように言った。 「トラヴィアータが奴の女だからだ」 「本当なのか」 「ああ」 「だから、お前は彼女と……」 「その話はもういい」新坂は押し黙った。 「トラヴィアータは、シランスの素性を知ってるのかな。それとも、謎《なぞ》の人物のまま付き合っているのかな」 「多分、知っているだろう」 「なぜ、そう思うんだ」 「何となくさ」新坂は落合にも、ふたりが謎めいた行動をとっていることを話さなかった。 「トラヴィアータをどこに匿《かくま》うか、もう決めてあるのか?」 「まだ、決めてはいない。それより、圭さん、あんたは銃を撃ったことがあるか?」 「昔、射撃場で四、五回撃ったことがある」  新坂は持ってきたバッグを開け、拳銃を取り出した。  ワルサーPPとS&W—M659。ワルサーPPの方を落合に渡し、撃ち方を教えた。  九時半すぎ、新坂と落合はフィリップを連れて外に出た。  落合は借りたベンツに乗り、トラヴィアータの館に向かって先に出た。  リュテス闘技場には、この前同様、エブリーヌが先に来ていた。 「母さん!」フィリップは、まるで幼稚園児のようにエブリーヌに飛びついた。  ふたりは、固く抱き合い、頬《ほお》を寄せた。 「もういい。ふたりとも、そこに座れ」  新坂は親子を並んで座らせ、ふたりの後ろに回った。 「それで、賭け札のある場所は分かったか?」 「ええ。買い手がついて気が緩んだのか、すんなりと教えてくれたわ。あの人の事務所の裏に、古い煉瓦造りの倉庫があるの。賭け札はすべて、その中よ。でも、あそこにあるのは明日までらしいわ」 「明日、取り引きが行われるってことか?」 「そうなの。明日の夜、十時に、買い手がトラックで来るのよ」 「奴の仲間は五人だったな」 「ええ」 「全員、取引現場に行くのか?」 「全員かどうか分からないけど、見張りを立てる、とダニエルは言ってたわ」  新坂はメモ用紙とペンをエブリーヌに渡した。 「ここに、あの解体工場の様子を詳しく書け」  ペンを握ったエブリーヌの手がかすかに震えていた。  メモ帳とペンを新坂に渡しながら、エブリーヌは、彼の顔を見つめた。 「倉庫には、侵入できそうな場所はあるか?」 「さあ、よく分からない。でも、窓は扉の横の方にしかなかったと思うわ」 「買い手はどんな奴だ?」 「アメリカ人としか聞いてない」 「よし、もう行け」 「後生だから、ダニエルを殺さないで」エブリーヌは、目を潤ませて哀願した。 「いつかは、あんたらのやったことがプレジャンの耳に入るだろう。このまま、どっかに姿を消す方が賢明だ」 「ダニエルは……」  新坂はそれには答えず、リュテス闘技場を出て行った。     20  シランスは、ぴったり十一時に、落合のアパートのブザーを押した。 「賭け札の隠し場所は分かったのか?」ソファに腰を下ろしたシランスが訊いた。 「ああ。二十四時間後には、俺と落合は、隠し場所を襲っているだろう」 「ふたりでやるのか?」 「やれなくてもやるしかない。正直言って、あんたが協力してくれると助かるんだが……」 「いや、悪いが、私は参加できない」 「分かってるさ。つまらんことを言っちまったな。ところで、借金の話だが、取り戻した賭け札を捌《さば》けるまで待って欲しい」 「あれは、君に差し上げよう」 「百万フランだぜ、シランス」 「君にはいろいろ借りがある」 「トラヴィアータのことなら、原因を作ったのは俺だ」  トラヴィアータの顔が脳裏に浮かんだ。新坂は微笑んだ。作り笑い。殴られた箇所に鈍い痛みを感じた。  それっきり、新坂とシランスは、黙りこくったまま、落合からの連絡を待った。  新坂は苛々《いらいら》し、部屋の中を歩き回ったり、テレビを見たりしていたが、シランスはキッチンのテーブルの前に座ったまま、まったく動かなかった。  午前一時四十分。落合が電話をよこした。カルロスは、ピガール広場のカフェに入った。ひとり。リュックとは、ついさっき別れたばかりだという。  シランスは、新坂の渡したS&Wをブルゾンの懐に押し込み、立ち上がった……。  ピガール広場は、人と車で混み合っていた。落合のベンツは�ナルシス�という、男性ヌードを売り物にしているキャバレーの前に停まっていた。アウディをベンツの横につけた。 「あそこのカフェに入ったきり出て来ない」落合がブルーのネオンの光っているカフェを指差した。「奴が出て来たら、俺はどうすればいい」 「俺の車について来てくれ」 「分かった。ところで、エブリーヌから情報は取れたか?」 「大丈夫だ。賭け札の隠し場所は……」  そこまで言った時、カルロスがカフェから出て来た。  ひとりではなかった。髪を短く切った背の高い黒人女と一緒だった。尻に食い込むような黒革のショート・パンツにピンクのトレーナーを着ていた。 「シランス、運転を頼むぞ」  カルロスと女は、表通りの方には行かず、路地に姿を消した。  好都合だ。暗がりでなければ襲えない。  シランスは、ゆっくりとアウディを路地に入れた。カルロスは、売春専門のバーや、ストリップ・ショーを売り物にしたナイト・クラブが立ち並んでいるフォンテーヌ通りを横切り、同じ通りをまっすぐに進んだ。 「俺は降りる。あんたは、通りの端で待機していてくれ」  車を降りた新坂は、壁に沿ってカルロスに近づいた。周りに人の気配はなかった。  アウディとベンツがカルロスをやり過ごした。  カルロスはしきりに女に話しかけ、女は頭に抜けるような声で笑っていた。  新坂は拳銃《けんじゆう》を取り出し、さらに近づいた。カルロスは新坂が真後ろに来た時、やっと振り返った。 「おとなしく俺について来るんだ」新坂はカルロスの腰の辺りに拳銃をつきつけた。  女が、馬のような口を開けて悲鳴を上げた。 「とっとと失せろ」新坂は女の顔を見ずに言った。 「何の真似だい、�彫像《スタチユ》�。頭がどうかしたんじゃねえのか」カルロスは、にたにたと笑った。 「馬鹿面を前に向けて歩け」  新坂はカルロスをアウディに押し込んだ。 「なんだ、あんたまでこいつの仲間だったのか」  シランスは、雇われ運転手のように、きちんと前を向いたまま、口を開かなかった。 「両手を前に出し、背もたれの上に置け。妙な真似をしたら、すぐにここでぶち殺す」  カルロスは言われた通りにした。  新坂は、カルロスの身体検査をやった。懐から三十八口径の拳銃、上着のポケットから飛び出しナイフが出てきた。 「トラヴィアータは、まだ例のワイン・ショップにいるのか」 「知らねえよ。ボスの女のことなんかに興味はねえからな」  新坂は、いきなり、カルロスの後ろで束ねた髪を、思い切り引っ張った。 「トラヴィアータは、まだあそこにいるのか」もう一度、質問を繰り返す。 「知らねえよ」  カルロスは強情だった。 「よし、じゃお前にはもう用はない。シランス、人気のない場所に連れて行ってくれ」  シランスがうなずいた。 「ちょ、ちょっと待ってくれ、�彫像《スタチユ》�……、わ、わかったよ。トラヴィアータは、まだ、あそこにいるよ」 「あそこに、今、何人の用心棒がいる」 「ふたりだ」 「うまいこと言って、ドアを開けさせろ」  カルロスは黙ってうなずいた。  アウディはムーラン・ルージュの横の道を、サクレ・クール寺院の方に上がった。  石畳に街路灯の光が当たり鈍く光っている。  ワイン・ショップを少し行ったところで、新坂とシランスは、カルロスを連れて車を降りた。  落合の運転するベンツは、アウディの後ろに停まった。  ワイン・ショップには電動シャッターが下りていた。顔を知られている新坂は、物陰に隠れ、シランスはカルロスの後ろに立った。 「シランスを友人だと紹介するんだぞ」 「分かったよ」  シランスのS&Wが、カルロスの背中を軽く押した。  カルロスがベルを鳴らした。ほどなく、中から足音が聞こえた。 「誰だ?」ドアの向こうから声がした。 「カルロスだ。開けろ。ボスに様子を見て来いと言われたんだ」 「そいつは誰なんです?」用心棒は、ドアに取りつけられたカーテンをめくって相手を確かめたらしい。 「俺のダチだ。心配はいらねえ」  モーターの唸《うな》り音に続いて、ドアの鍵をはずす音が耳に届いた。  その瞬間、シランスがカルロスの躰を強く押し、店内に飛び込んだ。新坂も、その後に続いた。  薄い茶のサングラスをかけ、濃い口髭《くちひげ》を生やした用心棒が、肩をそびやかし立ちすくんでいた。  カルロスは、背中をシランスの銃に狙われているので、身動きが取れない。 「両手を高く上げろ」新坂が低い声で言った。  男を、ワインが横に寝かされている棚の前に立たせ、躰をまさぐった。コルト・ガバメントが懐から出てきた。  カルロスも、男の横に並ばせる。 「どうした?」下から声が飛んだ。 「カルロスさんが来た。上に上がって来い、と答えろ」新坂が男の耳元で囁《ささや》いた。  男は、新坂の言ったことを、一字一句違えずに繰り返した。  シランスが階段の手すりの陰に隠れた。  新坂は、カルロスのこめかみに銃口を当てた。  紺のランニング・シャツの上にショルダー・ホルスターを下げた、太った坊主頭の男が階段を上がって来た。  男は新坂を見た。ホルスターに手が伸びた。  手すりの間から、シランスのS&Wが坊主頭に狙《ねら》いをつけた。 「ゆっくりと手を上げ、上がって来い」  坊主頭の男も、棚の前に並ばせた。 「トラヴィアータは地下一階にいるのか?」  サングラスの男がうなずいた。 「部屋の鍵は誰が持っている」 「俺だ」坊主頭が答えた。 「出せ」新坂が命令した。  坊主頭のジーパンのポケットから、大きな鍵が出てきた。 「シランス、トラヴィアータを運び出せ。ワイン棚の奥の部屋にいるはずだ」  新坂は三人の様子をよく見られるように、少し後退した。 「�彫像《スタチユ》�……。女にあんなことをしたのはボスの失敗だ。おめえの気持ちは分かるぜ。だが、こんなことは止した方が身のためだ。今なら遅くはねえ。俺が、ボスに口添えしてやる」  カルロスが下手に出てきた。だが、新坂は、何も応えなかった。  階段を上がって来る足音が聞こえた。  トラヴィアータの顔には痣《あざ》が残っていたが、ひとりで歩けるくらいに元気になっていた。  シランスがトラヴィアータを抱きかかえるようにして、新坂の後ろを通った。 「すぐに戻って来る」シランスが言った。 「彼女は先に帰した方がいい」 「そうするつもりだ」 「�彫像《スタチユ》�……」トラヴィアータが掠《かす》れた声で言った。 「早く行け」新坂は苛々《いらいら》した口調で言った。  ほどなく、トラヴィアータを落合に預けたシランスが戻ってきた。  新坂とシランスで、�ピガールのドン・ジュアン�の手下を地下二階に連れて行った。新坂はサングラスの男に、カルロスの手に手枷《てかせ》を嵌《は》めるように命令した。 「気は確かかよ、�彫像《スタチユ》�」カルロスが締まりのない口をだらりと開けて言った。顔が引きつっている。  カルロスは昨晩、新坂がやられたように、両腕を吊《つる》された。無防備な姿。カルロスが憎しみのこもった目で新坂を睨《にら》んだ。  太った用心棒を壁際に立たせた。拳銃のグリップで、頭を殴った。男は壁に沿うようにして倒れた。  地下室に、シランスを残し、新坂は、サングラスの男を連れて、再び、一階に上がった。 「ボスに電話を入れ、トラヴィアータが病気になり、ボスを呼んでいる、と言え。うまく呼び出せなければ、お前も、カルロスみたいに地下室に閉じ込めるからな」  サングラスの男はうなずき、受話器を取った。男は、電話に出た�ピガールのドン・ジュアン�に必死で演技をした。 �ピガールのドン・ジュアン�は、すぐに飛んで来ることになった。  午前二時十五分。三時までには着くだろう。 「何をする気なんだ」地下室に戻った新坂にシランスが訊いた。 「フェルナンをここに呼び出した」  拳銃をシランスに預けた新坂は、カルロスの前に立った。カルロスの額が汗で光っていた。  新坂は、ゆっくりと上着を脱ぎ、床に放り投げた。と、同時に、カルロスの腹を力一杯殴った。  鎖の揺れる音が部屋に響いた。カルロスは口から涎《よだれ》を垂らし、喘《あえ》いでいる。顎《あご》にアッパーを入れた。カルロスはもう立っていられない。腕をだらりと伸ばし、呻《うめ》き声を発した。  新坂は、椅子《いす》に腰を下ろした。カルロスが、うつろな目を新坂に向けた。  地下室に沈黙が流れた。かすかに水のしたたる音が聞こえる。  三時少し前、新坂は、サングラスの男を連れて、再び一階に上がった。  あとは�ピガールのドン・ジュアン�が来るのを待つだけだ。  三時五分すぎ。車の停まる音がした。  新坂は、カーテンの陰から表を盗み見た。 �ピガールのドン・ジュアン�は、シトロエンDSを、自分で運転してやって来た。  新坂は、ワインの棚の後ろに身を隠した。  ドアには鍵はかかっていなかった。 「相当、悪いのか、トラヴィアータは?」  サングラスの男は「ええ、まあ……」と曖昧《あいまい》に答えた。 「はっきり答えろ!」  新坂がすっくと立ち上がった。 �ピガールのドン・ジュアン�が振り返った。一瞬、顔を引きつらせたが、すぐに取りつくろった。 「何となく、様子がおかしいと思っておったよ」 「地下室に降りてもらいましょうか」 「わしに、こんなことをして済むと思っているのか?」  新坂は�ピガールのドン・ジュアン�の肩を強く押した。 「黙って降りろ」  地下室に降りた�ピガールのドン・ジュアン�は、シランスを見て笑った。不敵な笑い。 「馬鹿者は�彫像《スタチユ》�ひとりではなかったのか」  新坂は�ピガールのドン・ジュアン�の腕をカルロス同様、手枷《てかせ》につないだ。 「大丈夫か、カルロス」�ピガールのドン・ジュアン�は部下に声をかけた。  カルロスは、何とかうなずいた。  シランスが、サングラスの男を壁に立たせ、新坂がやったと同じように、拳銃のグリップで男を気絶させた。 「昨日の礼はさせてもらいますよ」  そう言って、新坂は�ピガールのドン・ジュアン�の鼻を殴った。ポマードで固めた�ピガールのドン・ジュアン�の髪が乱れ、こめかみにだらりと下がった。  今度は、口にストレートを打ちこんだ。  それでも、�ピガールのドン・ジュアン�は血だらけの顔を、新坂に向けた。  ふたりは、しばし睨《にら》みあった。 「わしは、必ずお前を殺す。たとえ、日本に逃げたとしても……」  シランスがやって来て、新坂を軽く横に押しやった。そして、左の拳で、腹を突き上げるように殴った。  その瞬間、新坂は、入口のあたりに人の気配を感じた。  振り向く。きらっと何かが光った。拳銃? 新坂はシランスの躰に重なるようにして床に転がった。  引金を引く。閃光《せんこう》が走り、銃声が数発、重なるようにして地下室に轟《とどろ》いた。  暗くなった入口から、よろよろと男が地下室に入って来て倒れた。赤毛のリュック。 �ピガールのドン・ジュアン�が、機転を働かせて、リュックに連絡を取ったらしい。 「�彫像《スタチユ》�」シランスが声をかけ、視線を�ピガールのドン・ジュアン�に移した。 �ピガールのドン・ジュアン�のチェックの上着が血を流していた。新坂を狙ったリュックの弾が、ボスに命中したのだ。  シランスが�ピガールのドン・ジュアン�の脈を取った。そして、淡々とした口調で言った。 「死んでる」 �ピガールのドン・ジュアン�の死に顔はおだやかだった。しばし、その顔を見つめていた新坂は、大きな溜め息をひとつつくと、カルロスに近づいた。そして、奴の後ろで束ねた髪を思い切り引っ張った。 「た、助けてくれ、�彫像《スタチユ》�、後生だから」  目が涙で潤んでいた。 「シランス、行くぞ」  そう言って、カルロスに背を向けた。  通りは静まり返っていた。地下二階での撃ち合い。通りにはそれほど音はもれなかったらしい。  アウディがクリシー大通りに出ると、シランスがぽつりと言った。 「なぜ、君はカルロスを殺さなかったんだ」 「もう礼は充分にした」 「あんな形でフェルナンが死ななかったら、私が代わりに殺していただろう。私も君も、トラヴィアータも生き残らなければならないからね。カルロスは君をつけ狙うぞ、きっと」 「俺はフランスを出る。奴には組織はない。追っては来れないだろう」 「奴は執念深いぞ。甘くみるな」 「あんたとトラヴィアータもフランスを出た方がいい」 「そのうちに出る」 「そのうちだって……? そうか、あんたらには何かやり残していることがあるらしいな」 「詮索《せんさく》するのは止せ。君にはまったく関係のないことだから」  四時少し前に、新坂とシランスは、落合のアパートに着いた。  新坂は、アパートに飛び込むなりキッチンに入り、ウイスキーをストレートで呷《あお》った。  ソファに座っていたトラヴィアータの視線を感じた。  落合が何があったのか、と新坂に訊く。新坂はフェルナンが死んだことだけ伝え、あとは押し黙った。  シランスはトラヴィアータの横に座った。ふたりは抱き合った。新坂は、彼等から目をそらし、また酒をグラスに注いだ。  トラヴィアータが立ち上がり、新坂の肩に手をかけ、頬《ほお》にキスをした。新坂はしばし、されるがままになっていたが、やがて、口を開いた。 「傷は痛まないのか」 「少し痛むけど、大丈夫よ」トラヴィアータのブルーの目がかすかに微笑んだ。 「すぐに、隠れ家を見つけなきゃな。俺たちも、ここにいるのは危険だ」 「どこか手頃な場所を知らないか?」シランスが訊いた。 「手頃な場所……」新坂には心当たりがない。 「シランス、神父様にお願いしましょう、こうなったら」トラヴィアータが意を決したような口調で言い、シランスを見つめた。 「それはいかん。どんな場合でも……あそこには……」 「ムッシュ・オチアイ」トラヴィアータが言った。「寝室をしばらく貸して下さらない」 「いいですよ、どうぞ」  ふたりは、寝室に姿を消した。 「あのふたりどうなってるんだい?」落合が、小声で訊いた。 「知らん」新坂は冷たく答えてグラスをあおった。  十分ほどして、シランスとトラヴィアータが居間に戻って来た。 「ムッシュ・オチアイ」シランスが緑の目を落合に向けた。「これから、私が案内する場所のことを、いっさい、他言しないでもらいたい。約束できるかな」 「ええ」落合がきょとんとした顔をして、うなずいた。 「�彫像《スタチユ》�も、これまで通り、黙っていてくれるわね」トラヴィアータが訊いた。 「むろんだ」 「それから、君たちの襲撃に、私も参加することにした」シランスが抑揚のない声で言った。 「無理しなくてもいい」新坂が言った。 「協力してもらおうぜ、新坂。ふたりじゃ心細い」と落合。 「なぜ、協力する気になったんだ、シランス?」  シランスは、無表情のまま肩をすくめた。「人手がいるんだろう?」 「分かった」新坂はうなずいた。「あんたに手伝ってもらうことにするよ」  シランスは、黙ってソファに座ると受話器を取った。 「……私です。こんな時間にすみません……。ええ……。今から、私を含めて四人の人間がそちらに参ります。しばらく、匿《かくま》っていただきたいのです……。御心配にはおよびません……。分かっています……。それじゃ、今すぐに」  新坂と落合は、ふたりの後について外に出た。  シランスとトラヴィアータがベンツに、そして、新坂と落合がアウディに乗った。  シランスの運転するベンツはパリを出、北に向かって走り出した。一昨日、新坂が行った修道院のあるランブイエとは逆の方向だ。  落合に訊かれるまま、新坂は、あのワイン・ショップで起こったことやエブリーヌから得た情報を教えた。  国道一号線を走り、十数キロ行った地点で、ベンツは右のウインカーを出した。国道一号線を外れ、さらに十キロばかり走った。そして、墓場の横を左に折れた。  周りは林か小さな森になっているらしい。漆黒の闇《やみ》をヘッドライトが切り裂いて行く。  ベンツがスピードを緩め、左のウインカーを出した。  前方に石造りの壁が見えた。 「あれは、修道院じゃないのか」落合が驚きの声をあげた。 「そうらしいな」新坂は淡々と答えた。  あのふたりと修道院はどんな関係にあるのだろうか。新坂の頭の中に、自然に疑問がわき起こった。  シランスがブザーを押す。やがて、鉄の門が開いた。神経質そうな顔をした、修道士風の格好をした男が、新坂の方を見ていた。  シランスが車に戻った。二台の車は、ゆっくりと修道院の前庭に入った。  門扉に�サン・ドミニック修道院�と書かれてあるのが、かすかにヘッドライトの光に浮かび上がった。  ランブイエの修道院よりも、敷地はかなり広かった。  教会堂の横に、やはり、石造りの建物があった。新坂たちは、そこに通された。 「車の鍵をお預かりします」修道士が新坂に手を差し出した。  新坂は言われた通りにした。 「おふたりは、私について来ていただきたい」修道士が新坂を見て言った。  階段を上がりかけた時、トラヴィアータが、新坂の頬にキスをした。そして、何か言いたげな目をして、食い入るように彼を見つめた。だが、新坂は、彼女から目をそらし、修道士の後について階段を上がって行った。  新坂と落合は三階の部屋に通された。年代物の木製のベッドが二台と机があるだけの簡素な部屋。 「トイレは、廊下のつきあたりにあります。ここにいる間は、目だった行動を慎んでいただきたい。お出かけになる際は、神父様の許可を得て下さい」  修道士はそう言い残すと部屋を出て行った。  落合は、落ち着かないのか部屋の中を歩き回ったり、机の引き出しを開けたりしていたが、新坂は服を脱ぐとすぐにベッドにもぐりこんだ。     21  新坂は昼すぎ、目を醒《さ》ました。落合は、まだ眠っているらしい。トイレに立つ。洗面所に、洗面用具が置かれてあった。  傷だらけの顔を水で濡らし、タオルで叩《たた》くようにして拭《ふ》いたが、髭《ひげ》を剃《そ》ると、剃刀《かみそり》が傷に触れそうなので止めた。  下から、本を読んでいるような声が聞こえた。一階に降りてみる。  奥の広間みたいなところに修道士が集まり食事をしていた。中央でひとりの修道士がテキストを読み上げている。  ふいに横からシランスが現れた。 「部屋にいてくれないか。もう少しで修道士たちの食事が終わる。そうしたら、君たちの食事を出させるから」 「あんたも、部屋に来てくれ。今夜の打ち合わせをしたい」 「分かった」  部屋に戻った新坂は落合を起こし、カーテンを開けた。  霧雨。修道院を取り囲む林が、その輪郭を曖昧《あいまい》にし、空に溶け込んでいた。  修道院の敷地は想像していたよりも広かった。石壁までは百メートルはありそうだ。敷地内は大半が畑だった。そして、畑の向こうには、二階家がぽつりと建っていた。  時間が止まっているような風景を、ぼんやり眺めながらピエロのことを考えた。ピエロがロムに言った�ナチスのようなガージョ�とは、やはり、ダニエル・ソラルのことだろうか。そうとしか考えられないが、賭け札を奪還する時、奴を捕らえ問いただしてみる必要がある。ロムに引き渡すのはそれからでいいだろう。  洗面を終えた落合が、新坂の後ろに立った。 「雨だな」と落合が言った。 「嫌な雨だ」  畑の向こうの家から人が出て来て、こちらの方に向かって歩いて来るのが見えた。修道士。手にお盆のようなものを持っている。 「あの建物にも、人がいるらしいな」落合がつぶやくように言い、「しかし、妙な具合だな。天才|賭博師《とばくし》のシランスとギャングの情婦トラヴィアータ……そのふたりと修道院は、まったく結びつかないよ。俺は正直言って、興味津々だぜ。新坂、お前、何か知ってるんじゃないのか」 「俺は、もう彼等には興味はないよ。今夜の襲撃が終わったら、彼等に会う気はない」  食事が運ばれて来た。料理はポ・ト・フ。  食事が終わっても、シランスは現れなかった。新坂と落合は、様子を見に廊下に出た。  踊り場に修道士がふたり、丸|椅子《いす》に座っていた。 「下には降りないでいただきたい」青い髭剃《ひげそ》り跡が目立つ若い修道士が言った。 「俺たちと一緒に来たふたりはどこにいる」 「神父様とお話しになっておられます」 「俺たちは、三階から出られないのかい?」落合が訊いた。 「いいえ、そんなことはありません。ともかく、もうしばらく、部屋でお待ちになって下さい」  せっかくの隠れ家。ことを荒立てて追い出されては元も子もない。新坂は黙って引き下がった。  落合はぶつぶつ文句を言い、部屋の中を苛々《いらいら》しながら動き回った。  一時間ほどして、シランスが部屋にやって来た。 「遅かったじゃないか」新坂が静かに言った。 「すまない」 「一体、こそこそ何をやっているんだ」落合が訊いた。 「君たちには関係のないことだ」シランスは、瞬きを忘れた目で落合を見つめた。「それより、今夜、私は何をすればいい」 「今のところ、これといったアイデアはない。荷物はトラックで運び出されるらしい。襲撃は、荷物がトラックに積みこまれた直後がいいだろう」 「トラックごと積荷を持ち出すのか」シランスが訊いた。 「そうだ。トラックの運転は落合がやる。彼は大型免許を持っているんだ」  新坂はエブリーヌに書かせた、解体工場の見取り図を拡げた。 「社長を拉致《らち》すれば、有象無象は何とでもなる」シランスが言った。 「俺もそう思う」と新坂。「それに、ソラルには訊きたいことがある。俺は、ブツと一緒に奴も連れ出すつもりでいる」 「どこから侵入するつもりだ?」落合が訊いた。 「表に見張りがいれば、裏の操車場か、隣の工場から入るしかないだろう」 「一度、下調べをしておきたかったな」シランスがつぶやくように言った。 「この修道院にボロ車はないかな。ちゃんと走るが、どっか、調子の悪いところがある車だ」落合が言った。「それがあれば、部品交換とか何とかかこつけて、様子を少しは調べることができるだろう」 「名案だ」新坂が同調し、シランスを見つめた。 「神父に訊いてみよう」 「よし、ボロ車が調達できようができまいが、すぐに出発だ」  シランスが部屋を出て行き、新坂と落合は出発の準備に取りかかった。  新坂が、マニューリンのシリンダーに弾をこめていると、ドアがノックされた。  入って来たのはトラヴィアータだった。顔の痣《あざ》は消えていなかったが、それでも、かなり顔色はよくなっていた。 「ムッシュ・オチアイ。ちょっと席を外していただけないかしら」 「下で待ってる」落合はにっと笑って部屋を出て行った。  新坂は窓から雨を見ながら、マニューリンをホルスターに収めた。 「�彫像《スタチユ》�……。気をつけて」掠《かす》れ声がささやくように言った。  新坂は振り返り笑みを作った。トラヴィアータが、いきなり抱きついてきた。新坂の躰《からだ》が、一瞬、強張った。だが、トラヴィアータの執拗《しつよう》な愛撫《あいぶ》に、次第に緊張は解けて行った。新坂は、彼女の長い髪を撫《な》で上げながらキスをした。 「いいのか、こんなことをして」新坂が小声で言った。 「シランスのことなら気にしないで。私は、あなたを選んだの」 「え?」新坂の動きが止まった。 「彼とは、ちゃんと話をつけるわ」 「しかし、そう簡単には……」  トラヴィアータは、新坂から少し躰を離し、彼の両腕に手を置いた。澄んだブルーの目が食い入るように、新坂を見つめている。 「生きて帰って、�彫像《スタチユ》�……」  心の襞《ひだ》がほぐれて行く。だが、新坂はそれが心配だった。かたくなに心を閉じていたからこそ、俺は、これまでやって来れたんだ。それが……。不安が躰中を駆けめぐった。 「私のすべて、私の空っぽの過去を、あなたに教えるわ」 「空っぽの過去?」 「ええ。あなたと一緒に、空っぽの過去を、永久に抹殺することにしたの。明日、すべてを打ち明けるわ」 「何を聞かされても、俺の気持ちは変わらない」  再び、ふたりは抱き合った。躰を離した時、涙顔のトラヴィアータは微笑んだ。そして、一歩、一歩踏みしめるように後ずさりし、部屋を出て行った。     *  修道院には、走ることは走るが、キャブレターの調子が悪い、72年型のルノー5TLがあった。  シランスはそれに乗り、落合がベンツを運転した。  パリで、落合がベンツを返している間に、新坂とシランスは工具類を揃《そろ》えた。ついでに新聞を買い、フェルナンの記事を探した。フェルナンと赤毛のリュックの死体は、オペラの地下駐車場で発見されたと書かれてあった。  ダニエル・ソラルの解体工場のあるアティス・モンスの街には、午後五時すぎに着いた。  小降りだった雨は、パリを出る頃から急に激しくなった。重く不快な雨。  A・デュブレという広場で、シランスのルノー5と新坂のアウディはいったん別れた。  新坂と落合は、操車場の様子を調べ、ソラルの工場の前に車を停めた。セーヌ川に雨が跳ね、対岸はうっすらと煙っていた。  ソラルの工場の様子を正面から窺《うかが》う。  左側が廃車置き場。右側が、部品を販売している店になっていた。廃車置き場と店の間が奥に通じる舗装された道路。店に沿って、その道を進むと事務所にぶつかる。事務所の後ろがスクラップ工場。そして、事務所の前を右に曲がると、店の裏手に出る。そこは、ちょっとした広場になっていて、正面が修理工場だった。左側が問題の倉庫になっているのだ。  双眼鏡を覗《のぞ》いて調べた限りでは、倉庫の裏手には、エブリーヌが言っていた通り、窓はまったくなかった。  六時少し前、シランスのルノーが、工場の奥から出てきた。新坂は、アウディを工場から二百メートルほど離れた場所に駐車した。その横にルノーが停まった。アウディをそのままそこに残し、新坂と落合はルノーに乗り換えた。 「中の様子はどうだった?」新坂が訊《き》いた。 「見取り図通りだ。賭け札の隠されている倉庫には、しっかり鉄のシャッターが下りていた。事務所の窓にはすべて鉄の格子が嵌《は》まっている。とても、短時間で切り落とせる代物じゃない。強硬手段に訴える以外に、方法はなさそうだな」シランスが落ち着いた口調で言った。 「しかし、相手は少なくとも、五、六人はいる。取引相手を含めれば、それ以上の人数だ。まともに戦っては勝ち目はない」落合が首をひねって、つぶやいた。 「やってみなければ分からない。頭数が多くても、たいがい、そのうちの半数は役にたたないものだ」とシランスが答えた。 「首尾よく行ったら、どこに賭け札を隠すんだ」落合が訊く。 「まっすぐローマンヴィルに行ってくれ」 「ローマンヴィル?」シランスが訊き返した。 「安全な場所とは言えないが、そこに寄る用が俺にはあるんだ」  三人は駅の近くのレストランに入り、食事をした。  どう攻めるか、まったく結論が出ないまま、時間がたって行った。  シランスは、珍しく苛々《いらいら》しているのか、ポケットからトランプを取り出し、何度もシャッフルした。カジノのディーラーのように鮮やかな手付きで。  落合がトイレに行った時、シランスはシャッフルするのを止めた。 「この件が済んだら、君に話がある」 「彼女のことか?」新坂は目を合わせずに訊いた。 「君と彼女は、うまく行かない。そういう運命なんだ」  再び、シランスがトランプをシャッフルし始めた。 「ことを起こす前に、女の話はよそう」 「そんなことぐらいで、君のツキは落ちない」 「そう願いたいものだ」  新坂とシランスは、しばし見つめ合っていた。  落合がトイレから戻って来た。新坂が勘定を支払った。  九時半少し前。出たとこ勝負で戦うことに決め、三人はレストランを出た。  雨は降り続いている。すでにびっしょりと濡れた石畳の道路を、激しく雨が叩《たた》く中を、ルノーはセーヌ川に向かって走った。  はじめは、操車場から侵入して、線路を横切るつもりだったが、操車場は、道路よりも十メートルほど下がったところにあり、コンクリート塀を登り降りするのが、かなり難しそうだった。そこで、しかたなく、隣の印刷工場に入り、そこの金網を破ることにした。  小道に車を止め石造りの塀を乗り越えた。新坂が金網を切った。  列車の明かりが見えた。パリ・オステルリッツからオルレアン方面に向かう列車らしい。新坂の顔を雨が叩いた。微かに息に白いものが混じっている。  舗装されていない道なき道を、廃車の間をぬって事務所に近づいた。  時計を見る。十時十二分前。  潰《つぶ》れたプジョー504の陰から裏の広場に目をやった。  事務所の前にひとり、門のところにひとり、それから、店の裏口にひとり、用心棒が立っている。だが、新坂の位置からは奥に引っ込んでいる倉庫は見えなかった。スクラップ工場の間にやっと人が通れる隙間《すきま》があった。  新坂はそこに入った。事務所の裏窓のカーテンがほんの少し開いていた。  覗《のぞ》いてみる。革張りのソファに座ったダニエル・ソラルがテレビを見ていた。小刻みに左脚が揺れている。貧乏揺すり。取引相手が現れるのを苛々《いらいら》して待っているらしい。  倉庫に向かって、ゆっくりと進み、銃を抜いた。事務所の角から、倉庫の入口に目をやった。  ふたりの男が、入口の前を行ったり来たりしていた。  合わせて五人の用心棒が見張りに立っている勘定になる。  いったん、廃車の山の陰で待機しているシランスたちのところに戻った新坂は、状況を説明した。  十時二分。白いフェラーリとトラックが一台、工場に入ってきた。トラックは、バックで広場につっ込みたいらしく、廃車置き場の入口に入り、向きを変えた。誘導する男の声が雨音をぬって聞こえてくる。 「メルセデス407DC37っていう四・六トン・トラックだな」落合がつぶやいた。  広場がよりよく見える場所に移動する。  フェラーリから、恰幅《かつぷく》のいい白髪の紳士と、黒っぽいスーツを着た縮れ毛の男が降りてきた。  縮れ毛は両手に黒いバッグを持っていた。中味は現金らしい。  ふたりは事務所に入ったが、すぐに出てきた。縮れ毛は、もうバッグを持っていなかった。それぞれ傘をさし、新坂の視界から消えた。奴等は荷の積まれるのを見るために倉庫に向かったらしい。  荷を積み終わらないうちに、何らかの手を考え出さなければならない。新坂は焦った。  事務所の入口を見張っている男に近づけば、門と店の裏口にいる用心棒に分かってしまうし、事務所の裏の細い道路から飛び出せば、倉庫の前にいる用心棒に、真っ先に気づかれてしまう。  だが、ダニエルが事務所に戻る前に何とかしなければ、おそらく、二度とダニエルを捕えるチャンスは巡ってこないだろう。  事務所の裏の細い通路から、倉庫の入口までは、三メートルぐらいしかない。奴が事務所に戻りかけたところを襲うしか手はないだろう。周りに散らばっている用心棒に気づかれるが、シランスと落合が、門、店の裏口、それから事務所の入口にいる用心棒の動きを止めてくれれば、何とかなるかもしれない。  雨と傘が、新坂の味方だ。足音は消されるし、ダニエルと白髪の紳士、それにその部下らしい男の動きは、傘のせいで極端に鈍るはずだ。残りは、倉庫の前にいるふたりとトラックの運転手。  自分が奴等の銃弾に倒れるのが先か、ダニエルを拉致《らち》できるのが先か、確率は五分五分だ。  新坂は計画をふたりに話した。ふたりとも、いいとも悪いとも答えなかった。 「君の運の強さなら大丈夫だろう」  シランスのそのひとことで決まった。 「俺が飛び出すと、ここから見える三人の用心棒は、必ず、俺の方に銃を向けるだろう。そうしたら、威嚇射撃をして、注意をあんた達の方に引きつけてくれ」  新坂は、廃車の間を通り、再び、事務所とスクラップ工場の間を抜け、倉庫の入口の見えるところまで戻った。  倉庫を見張っていた用心棒たちと、運転手が、フォークリフトを使って荷をトラックに積んでいた。  十分、十五分と時間がたった。横殴りの雨の中を、フォークリフトが行き来している。  傘が動いた。長い影が事務所に向かう。ダニエル・ソラルが先頭だった。  新坂は、いきなり飛び出し、ダニエルに向かって走った。 「誰かいるぞ!」声が飛んだ。  と、同時に銃声が、重なり合うようにして響いた。  ダニエル・ソラルは、開いた傘で応戦しようとした。だが、そんなもの、ものともせず、新坂はダニエルに被《かぶ》さるようにして飛びついた。骨の折れた傘が地面に落ちた。  縮れ毛の男が傘を捨て、懐から銃を取り出したのが見えた。  新坂は、ソラルの首に腕を回したまま、男の脚を撃った。男ががくりと膝をついた。その瞬間、男は、たて続けに二回、引金を引いた。  新坂の左腕に衝撃が走った。ソラルが悲鳴を上げた。ソラルの右胸が、みるみるうちに、赤く染まった。  新坂は、ソラルを楯《たて》に事務所の壁まで下がった。  ソラルの激しい息遣いが新坂に伝わってきた。意識はあるらしい。 「俺が死ねば、お前も死ぬ」新坂はソラルに言った。 「う、撃つな、皆、撃つな!!」力のない声でソラルは叫んだ。 「銃を捨てろ!!」  フォークリフトに乗った男が真っ先に言われた通りにした。 「トラックの中にいる者はすぐに降りろ!」  用心棒と運転手が荷台から飛び降りた。 「荷台の扉を閉めろ」 「荷は私のものだ」白髪の紳士が言った。フランス語に強い訛りがあった。 「お前の金は奪わない。俺はこいつに用があるだけだ。取引はなかったと思え」  シランスと落合が、残りの三人の見張りを連れて、広場に来た。そして、倉庫の前に、全員を並べた。  シランスがアウディを取りに行き、落合がトラックに乗った。  ソラルは、傷を押さえたまま喘いでいた。  死なれてたまるか! ピエロのことを白状するまでは死なせない。新坂は、心の中でそう叫びながら、トラックまで進んだ。  落合が、ソラルを引き上げる。新坂は、銃を構えたまま助手席に乗った。 「その場を動くな。動けば、ソラルは死ぬ!」新坂はそう威嚇してドアを閉めた。  追っかけて来る車は、一台もなかった。  新坂は着ていたシャツを脱ぎ、それでダニエル・ソラルの胸を強く縛る。新坂の腕の傷は大したことはなかった。落合のハンカチと自分のを結び、それで腕を縛った。  ブルゾン一枚になった新坂は、寒くて躰が震えた。  アウディとメルセデスのトラックは、道路にできた水たまりを蹴散らしながら疾走した。     22  トラックとアウディがジプシーの宿営地に入っていくと、キャンピング・カーから、男たちが飛び出して来た。  落合とシランスが、うつろな目をしたソラルを担いで、新坂の後について来る。  撃たれた腕が痛くてたまらない。  ジプシーたちが、新坂の前に立ちはだかった。その中央にロムが立っていた。 「孫を殺した奴は、そいつか?」 「いや、今のところはまだ容疑者だ。おそらく、こいつがやったと思うがな。キャンピング・カーを、しばらく貸してくれ。この男に問いただしたいんだ」 「わしのキャンピング・カーを、使え」 「それから、もうひとつ頼みがある。トラックに積まれた荷物をここに置かせてくれ」 「荷は何だ?」 「カジノで使う賭け札だ」  ロムが男たちに何か言った。男たちが、トラックに向かった。 「そのトラックはどうする?」 「あんた等の好きにしてくれ。ただ、盗んだ物だということは忘れるな」  キャンピング・カーに連れこんだソラルを、長|椅子《いす》に寝かせた。 「川船の男を殺したのは、お前だな」 「助けてくれ、頼む……」声がはっきり聞き取れないほどソラルは弱っていた。 「答えろ!」新坂はソラルの胸ぐらをつかんだ。 「ああ、だが、お、俺は、や、奴を撃つ気はなかった」 「あそこにいた少年も殺したな」 「な、何の話か、わ、わからない」 「お前は、あの少年に顔を見られた。あいつは、後日、フィリップの後をつけていた。お前がピエロを殺ったんだ!」  ソラルは弱々しく首を振った。  口から涎《よだれ》が垂れた。 「ピエロを殺したのは、お前だ! お前しかいない!!」新坂は、ソラルの躰を揺すった。 「た、助けて……」ソラルの意識が朦朧《もうろう》としてきたようだ。 「クソ! 白状するまでは死なせない……」 「荒っぽく扱ったら、本当に死んじまうぜ」落合が、新坂の肩に手をかけた。  新坂は、ソラルの脈をとった。ソラルはすでに死んでいた。  窓もカーテンも閉まっているキャンピング・カーの中はむっとするほど暑かった。  新坂は額の汗を拭《ぬぐ》って、長椅子の肘掛《ひじか》けを拳《こぶし》で叩《たた》いた。 「ジプシーの少年を殺したのは、その男ではない」シランスが新坂の背中で言った。  ソラルを覗きこんでいた新坂と落合が同時に振り返った。 「シランス……」新坂が茫然《ぼうぜん》としてつぶやいた。  シランスは、ふたりに拳銃を向けていたのだ。瞬きを忘れた目には、何の感情も動いてはいなかった。 「どういうことなんだ」新坂は低くうめいた。 「ピエロとか言う少年を殺したのは、私だ」  新坂は、頭の中が真っ白になった。訳が分からない。どこでどうピエロとシランスが繋《つな》がっているというのだ。 「私は、アパートに侵入した男をサイレンサー付きの銃で撃ち殺した。侵入者があんな少年だとは知らなかった。彼の渾名《あだな》や本名は新聞で知った。だが、あの子が、君の知り合いとは考えもしなかった。襲撃が終わった後、ローマンヴィルに行く、と聞いて、ひょっとしたら、と思ったんだが、やはり、そうだったのか……。君たちは、初めから、私たちを罠《わな》に嵌《は》めるために、私に近づいたらしいな。日本人の君たちを疑わなかったのは、迂闊《うかつ》だった。ピエロという少年は君たちに……」 「何を言っているのか、俺にはさっぱり分からん」新坂は、シランスを真剣に見つめた。  シランスも見返したが、やがて、視線を落合に移した。新坂も落合を見た。 「お、俺だって、何の話か分からない」落合の顔はひきつっていた。それでも、何とかいつものように穏やかに笑った。 「�彫像《スタチユ》�……この男とは、どこで再会したんだね」 「トゥルーヴィルのカジノでだ」 「私が向こうに行っていた時のことだね。おそらく、君の友人は、ノルマンディーで私の立回り先を探っていたのだろう」  新坂ははっとした。落合のアパートで見たノルマンディーの地図を思い出したのだ。 「俺は、圭さんのアパートで妙な物を見た。赤い×印のついたノルマンディーの地図をな」 「君の友人は、�アンチ・対独協力者《コラボ》連盟�のメンバーに違いない。その×印は、おそらく、修道院のある場所だろう」  コラボ。第二次大戦中、ナチスは数年間、フランスを占領した。その際、ナチスに協力したフランス人を�コラボ�と言う。しかし、アンチ・コラボ連盟というのは、初めて聞く名称だった。 「その連盟は、何をやっているんだ?」 「分かるだろう、コラボ狩りだ」  新坂は、落合を睨《にら》んだ。 「どうなんだ。シランスの言う通りなのか?」  落合の口が、わなわなと震えていた。 「答えろ、圭さん!」そう言って、新坂は銃を取り出した。 「止めろ、新坂。シ、シランスの味方をすれば、お前は、間接的にナチスを助けることになるんだぞ」落合は日本語でわめいた。 「戦争は四十五年前に終わってるんだぜ。シランスの歳で、ナチス協力者の訳がないだろう」 「こいつの父親は、民兵《ミリシアン》モーリス・モニエ……頭文字を取って、トリプルMと呼ばれていたナチス協力者なんだ。�人道《ユマニテ》に対する罪�で、警察に追われている父親を、こいつは庇《かば》い、援助していたんだ」  トリプルM。どこかで聞いたことがある。思い出した。 「シランス、あんたのアパートに、初めて行った時、確か、�トリプルM�と書かれた封筒を俺は拾った」 「私が、トリプルMの息子ではないかと疑っていた�アンチ・コラボ連盟�の連中が、私に揺さぶりをかけるために、脅迫状を送りつけてきたんだ」そこまで言って、シランスは落合に視線を向けた。「しかし、なぜ、日本人の君が、あの連盟のために働いているのか、私には分からない」 「俺の女房はユダヤ人だ。彼女の祖父母は、あんたの父親ら、ナチス協力者たちに捕らえられ、強制収容所に送られた。妻は�アンチ・コラボ連盟�の会員なんだ。だから、俺も協力している。当然だろう?」 「俺をだまして、シランスに接近したのはなぜなんだ?」新坂が低くうめくように言った。 「新坂、俺の話を聞いてくれ。聞けば、お前も、奴の味方をする気にはならないはずだ」  落合は、戸口で銃を構えているシランスをちらっと見、日本語でそう言った。 「話してみろ。シランスにも分かるようにフランス語でな」 「トリプルMは、一九四三年から四四年にかけて、リヨンにあった親独義勇軍《ミリス》の責任者だった。対独抵抗運動《レジスタンス》の弾圧とユダヤ人狩りを率先して行っていた男なんだ。奴の命令で、殺された人間は三千人を超すし、本人が直接、手を下した人間は、分かっているだけで五人もいる。その中には妊娠中の女まで含まれていた。  だが、ノルマンディー上陸作戦が行われた直後、トリプルMは、忽然《こつぜん》と姿を消した。恋人のジャクリーヌ・ブルーノと一緒にな。カトリック系の修道院や司祭の家に匿《かくま》われながら、逃げ回っていたことは分かっていたんだが、連盟は、どうしても、その所在地を明らかにすることができなかった」 「なぜ、修道院がそんな大罪人を匿ったんだ」 「カトリック系の教会や修道院が、戦時中、レジスタンスの闘士やユダヤ人を匿った例はたくさんあるんだが、一部の教会関係者は、コラボとくっついていたんだ。イエス・キリストを殺したのはユダヤ人という考え方が、カトリックの間では昔からあるし、パリがナチスの手に落ちた直後に、対独協力者によって作られたヴィシー政権は、カトリック教会を、道徳、精神における最高の権威として、厚く保護したんだ。神父たちの中にはローマ法王から破門されても、コラボの味方をする連中がいるという話だ」 「カトリックとコラボのつながりは、もう分かった。それで……?」 「連盟の調査で、逃亡中、恋人のブルーノが妊娠し、男の子を出産したことが分かった。教育はカトリック系の学校で受けていたらしいが、五〇年代に入って、彼の素性がバレ、レジスタンス運動で両親をなくした子供たちによって、リンチを受け、左腕に焼きゴテを当てられたんだ。  連盟は、数十年間、トリプルMの足跡を追っていたが、杳《よう》として足取りがつかめず、一時期、捜査の手が緩んだことがあった。だが、一九八三年に、リヨンのゲシュタポ隊長だったドイツ人、クラウス・バルビーがボリビアで逮捕されてから、再び、トリプルM捜査の熱が高まったんだ。  その際、息子の線からトリプルMを探す案が出され、連盟の一部のメンバーがこれに当たることになった。しかし、写真や指紋はおろか、何の手がかりもないので、息子を探すのにも、時間がかかった。  唯一の決め手は、左腕の火傷《やけど》の跡だけだが、大人になったモニエの息子は、火傷の跡を治療しているかもしれない、ということで、二年ほど前から、フランス全土の形成外科を調べたんだ。何人か疑わしい人物がリスト・アップされ、その中にシランスが入っていたのさ。しかし、シランスと名乗るギャンブラーが果たして、モニエの息子かどうかはっきりしなかった。シランスを誘拐しよう、という意見も出たが、彼が父親の居場所を知っているとは限らないし、たとえ知っていたとしても口を割る可能性は少ない。それで、脅迫状を送りつけ、揺さぶりをかけ、尾行をつけ、奴の行動を探ったんだ。だが、奴はまったく尻尾を出さなかった」 「トラヴィアータを誘拐しようとしたのも、あんたの仲間なのか?」 「直接手を下した連中は、連盟の者ではないが、命令したのは連盟だ。時々、シランスが明け方、トラヴィアータに会いに行っていることを突き止めた連盟は、トラヴィアータが、シランスの愛人だ、と判断した。そして、愛人を拉致《らち》し、シランスに迫れば、おのずとシランスがモニエの息子かどうか分かるかもしれない、と考えたんだ」 「そこへ、俺が現れたってわけか」 「その通りだ。シランスと親しい日本人の存在が、クローズ・アップされた時、俺に出番が回って来た。車のナンバーから、お前の名前が判明した時、俺は驚いたよ」落合が、弱々しく笑って言葉を切った。「お前の素性を知っている俺は、お前が政治的な活動には、まったく縁のない人間であることを、連盟に言明した。すると、旧友に近づき、シランスがモニエの息子かどうか調査しろ、という命令が出た」 「トゥルーヴィルまで俺をつけてきたのか?」 「いや、あの時は、シランスを追っていたんだ。だが、奴に撒《ま》かれてしまった。シランスがまっとうな市民生活を送っている人間なら、尾行を撒いただけでも、奴がモニエの息子である、と語っているようなものなのだが、賭博師《とばくし》では、そうは決めかねた。しかたなく、パリに引き上げようと思った時、お前がトゥルーヴィルのカジノに現れた。カジノを張っていた仲間から連絡があり、これはまたとないチャンスだと、俺は思ってお前に近づいたんだ」  落合が新坂に語ったことは、すべて嘘《うそ》だったのだ。アルジェリア帰りも、レストランを開く話も。落合のアパートから出て来た、ふたりの紳士は、連盟のメンバーだったのだろう。新坂は、怒りをこめて落合を睨《にら》みつけた。 「シランスとの勝負に使った五十万も連盟から出たものだったんだな」 「そうだ。奴に近づく方法がなかなか見つからなかった。勝負師は勝負師と仲良くなるものだ。大勝負をやれば、もっと親しくなれると思って、あんなことをやったんだ。だが、奴は俺の心を見抜いていた。本気で勝負をしていなかった、と後で言われた時には、俺はぞっとしたよ」 「警察にも連盟の人間がいるらしいな」 「ああ。何とかいう警視がお前を追っていた。それでは、お前を自由に動かせない。だから、手を回したんだ」  ツェリンスキーはポーランド人。第二次大戦中、ポーランドはナチスに占領された……。はっとした。ひょっとしたら、奴にはユダヤの血が流れているのかもしれない。そうだとしたら、捜査から外されたツェリンスキーの態度が、あとで変わったのも理解できるような気がした。奴は困っていたのだ。ナチス協力者狩りには協力したいが、自分の宿敵が、そのために利用されているのを、複雑な気持ちで受け止めていたのだろう。  新坂は目を伏せ、うなだれた。  想像だにしなかった事実が、自分とシランスと落合の間に展開していたとは……。そして、その犠牲となったのが、ピエロだったのだ。  ナチスのようなガージョ。ピエロがロムに言った言葉は、残忍なヨーロッパ人という比喩《ひゆ》ではなかった。まさに、文字通りの意味だったのだ。 「お前は、ナチスを憎んでいたピエロを利用したんだな?」新坂は上目遣いに落合を睨《にら》んだ。 「ピエロと俺は、お前がトゥルーヴィルに行っている間に親しくなった。奴はバイクを欲しがっていたよな。だが、あんたがフェルナンと問題を起こし、金に困っていることを知ったピエロは、あんたの金は使いたくない、と言った。それで、俺がその金を出すと持ちかけたんだ」 「シランスのアパートで、何をさせるつもりだったんだ」 「盗聴器をつけさせようとしたんだ。以前、連盟で試みたんだが、見破られた。だが、もう一度やって見てもいい、と判断した。ピエロは錠前破りが得意だと言っていたし、シランスの動きを見張っていても、子供だから疑われる確率が低いと思った……」 「ピエロがすんなり、あんたの誘いに乗ったなんて信じられない」 「すんなり、引き受けはしなかったよ。奴はお前の命令しか聞かない、と言って初めは、断ったんだ。そこで、俺は、手伝ってもらいたいわけを話した。真相を話すのは危険だとは思ったが、ピエロは、その前に、祖父がナチスに迫害されたことを、俺に話していた。だから、ナチス協力者を捕らえるためだ、と口説いたんだ。そうしたら、ピエロは、お前にも内緒でやると言ってくれたんだ」 「汚い……あんたは、汚い男だ」新坂は吐き捨てるように言って、撃鉄を上げた。 「何を血迷っているんだ。新坂!」落合が日本語で叫んだ。「汚いのはシランスの親父で、ピエロを殺したのはシランスだぞ。俺を殺すということは、�人道に対する罪�を犯した人間を容認することになるんだ」 「何が、人道だ! シランスの親父が、しかるべき裁きを受けるのは当然だし、身内を虐殺された者たちが、復讐しようとするのも、もっともだ。だが、シランスには関係ないことだ」 「こいつは、父親を援助しているんだ。賭けで勝った金も、おそらく、逃走資金として使われているはずだ」 「そうだとしても、シランスが、レジスタンスの闘士を殺した訳でもないし、ユダヤ人を強制収容所に送った訳でもない。シランスは、単にモーリス・モニエの子供というだけじゃないか。そんな人間を、ナチス同様に扱うのが、あんたの言う人道なのか。ピエロを死に追いやった原因を作ったのは、あんただ」  新坂は立ち上がった。落合が後ずさった。床に落ちていたワインの瓶を踏み、躰のバランスを崩して倒れた。 「聞いてくれ、新坂。お、俺は連盟の命令に従っただけだ。お、俺の女房の父親は、俺が、ドイツと手を結んでいた日本人だというだけで、俺と彼女のことを最後まで認めなかった。だから、俺は、身をもって……」 「本音を吐いたな、圭さん。あんたは、恥知らずの偽善者だ」 「動機が何であれ、俺は、歴史的な犯罪者を捕らえたんだぞ」 「捕らえた?」 「そうだ。もうとっくに、我々の仲間が、あの修道院に駆けつけているはずだ。トリプルMは、必ず、あの修道院のどこかにいると俺は睨んだのさ。あとはシランスを捕らえて、警察に突き出すだけだ」  新坂はトラヴィアータのことを考えた。シランスに協力してきた彼女が、無事な訳がない。  新坂は、落合の懐から拳銃を抜き取り、部屋の隅に投げた。そして、落合のこめかみにマニューリンをつきつけた。落合は、荒い息を吐きながら、目から涙を流した。 「お、俺はお前を助けてきた人間だぜ……。どんな理由からだろうが、俺はお前を……」  新坂は撃鉄を上げた。 「止めろ、�彫像《スタチユ》�」シランスが、新坂の後ろに立っていた。  落合は、脚を床に擦らせながら、新坂から逃れようとした。  シランスが、新坂を軽く押し、落合の前に出た。 「お、お前は極悪人だ!」落合がシランスに向かってわめいた。  シランスが、落合の頭を拳銃のグリップで殴った。落合は一発で気絶した。 「この男がいなくても、いつかは、父が捕まる日は来たんだ」 「父親が捕まったってどうして分かる?」 「サン・ドミニック修道院には、奴が言ったように、もう連盟の連中と警察が踏みこんでいるだろう。この男が連絡を取る機会はいくらでもあったからな」 「女だけの修道院で、窶《やつ》れた老人に会った。あれが、あんたの父親なのか」  シランスがうなずいた。 「ジャン・フランソワって名前をその老人が言ったが、あれはあんたのことか」 「かつて、そんな名前で呼ばれたこともあったよ」 「なぜ、俺たちを、父親の修道院に匿ったんだ?」 「トラヴィアータが、自分を救い出してくれた君たちを放ってはおけない、と言い出し、あの修道院以外、安全と思える隠れ家がないと言い張ったからだ。私は迷った。君のことは信頼していたが、奴のことは何ともよく分からなかったからね。だが、結局、トラヴィアータに押し切られたんだ。今夜の襲撃を手伝ったのも、彼女に頼まれたからだ」 「父親をなぜ、女修道院から移した?」 「君がランブイエの修道院に行った際、後をつけられた、とトラヴィアータから聞いた。だから用心のためにサン・ドミニック修道院に、私の仲間……君が会った葬儀屋が移したんだ。ここ数か月、連盟や警察の動きが激しくなった。だから、父を外国に逃がすことにした。それは明日だったんだがね……」 「俺にトランクを運ばせるように命じたのは、あんただったんだな」 「そうだ。私やトラヴィアータが動くよりも、安全だと判断したからだ。君は尾行を撒くのはうまいし、犯罪者だから、常に周りに気を配っている。最適の人間だと思った。あのトランクは、燃やしてくれたまえ」 「何が入ってるんだ」 「父の秘密だよ」そう言って、シランスはテーブルの前に座った。「私は、君が大事にしていた少年を殺した。どうする、私を殺すか、それともジプシーたちに引き渡すかね」  一瞬、答えに窮した。新坂は、自分のアパートに侵入した者を撃ち殺したシランスよりもピエロを利用した落合に怒りを感じていたのだ。しかし、このままではすませられない。 「ジプシーに引き渡す。約束だからな」新坂は、シランスを見すえて、きっぱりとした口調で言った。 「私は、生き延びる」シランスが静かに答えた。  お互いが銃を構えている。新坂が引金を引けば、シランスも撃つだろう。 「どうだ、�彫像《スタチユ》�。私と勝負しないか」 「勝負だって?」 「そうだ。バカラで勝負を決めよう。負けた方が自分で引金を引く。お互いに撃ち合うよりはマシだろう。君が負けた場合は、ピエロを殺したのは、君と君の友人だということにする。どうだね、私の挑戦を受けるかね?」  新坂にはシランスに勝つ自信はなかった。 「三回先に勝った方が、勝ちということにする。君は、私の強さを心配しているらしいが、もう今は君と私は同等だ」 「なぜ、そんなことが言える?」 「勝負をすると言ってくれれば、すべてを話す。トラヴィアータのこともな」  新坂は、銃を下げた。シランスもテーブルの上に銃を置き、ポケットからカードを取り出した。  シランスは手際よくカードを切った。 「私が、父を援助したのは、なぜだと思うかね」 「肉親の情愛から……」  シランスは首を横に振った。 「私は一九四六年に生まれた。母のジャクリーヌは、私が六歳の時に死んだ。この世で、私の存在を保証しているのは、あの男だけだった」 「どういう意味だ?」 「逃げ隠れしていた父と母から生まれた私は、この世のどこにも、私の存在を証明するものを持っていないんだ。戸籍も身分証明も何もない。ただ唯一、あの父だけが、私に生きている実感をあたえる存在だった。私が、父がどんな人間であろうと、父を守ったのは、ただ自分の存在を証明するものを失いたくないからだったのだ。名前や戸籍など、君には、単なる書類上のことにしか思えないかもしれないが、自分の苗字すら名乗れない子供時代を過ごしてみたまえ。何かにすがりたい気持ちがするものだよ。たとえ、ナチス協力者でも、父だけが、私の存在を保証してくれていたんだ。だから、その人間と接することだけが、私自身を人間と思える時だったのだ」 「�君には人生がありすぎる�。あの言葉が、やっと理解できたよ、シランス。あんたの過去は、父親の存在以外は、何もなかったんだな」 「賭事《かけごと》は運をかけるものだ、とよく言われるが、もっと正確に言えば、人生を賭けずに運をかけるものなのだ。私が賭事に強いのは、初めから賭ける人生などないからなのだ。私は、本当のギャンブラーなんかではない。だから、勝てた。ナチス協力者の子として生まれた最悪の運を、カードに託していただけなのだ。初めて会った頃の君は、運の強い男ではあったが、人生があった。その人生を賭事に賭けたから、私には勝てなかった。しかし、十数年して会った君は、変わっていた」 「だが、あんたほど人生を失うことはできない。ということはこの勝負はやる前から、俺の負けらしいな」 「そうでもない。父はもう捕まっているだろう。私の勝負師としての強さは、父の悪魔のような力が乗り移ったものではないかと思っているんだ。あの魔力は、どうやら衰えたような気がする。君と私は、今はどちらが勝つか分からない」 「トラヴィアータのことを話してくれ。彼女も過去は空っぽだと言っていたが……」 「君の惚れたトラヴィアータも、私のように幽霊みたいな存在なんだ」 「なんだって?」 「トラヴィアータは、私の妹だ。彼女にも戸籍もなにもないんだ」  新坂は、唖然《あぜん》としてシランスを見つめた。 「母は彼女を子宮外妊娠で生んだ。それが原因で母は死んだのだ。丁度私が六歳の時で、落合が言っていたように、素性がバレ、リンチを受けた直後だった。だから、父は、トラヴィアータのことは誰にも言わず、カトリックの学校にも通わせなかったんだ。私たちふたりは、数年間、独房にいるような生活を送った。彼女の友達は、ハツカネズミだけだった。  贋《にせ》の身分証を手に入れてから、私たちは、お互いに働くようになった。ふたりは、いろいろな職業についたが、結局、私はギャンブルで生活するようになり、彼女はダンサーになった。私は、数年間、世界のカジノを回った。戻ってみると、妹はフェルナン・プレジャンの情婦になっていたんだ。  私たちは、稼いだ金を使って、父の逃走を助けていた。いくら離ればなれになっていても、ふたりの結束は変わらなかった。ところが、君が出現し事態は急変した。私以外の人間とは生きていけない彼女に、君は惚《ほ》れ、彼女も君を愛した」  新坂は何も言うことができなかった。空っぽの過去を抹殺する、と言った彼女の言葉が甦《よみがえ》った。 「父親と一緒に、彼女もつかまったと思うか?」 「多分な。�人道に対する罪�を犯した大罪人の逃走を助けたんだ。しばらくは、厳しい取り調べを受けることになるだろう」  何とかしたい。トリプルMの娘というだけで、世間の誹《そし》りを受ける彼女を救い出したい。新坂は何か名案はないかと考えたが、何も浮かばなかった。 「そろそろ、勝負をしようではないか」  新坂は黙ってうなずいた。 「カードは君が配れ」シランスが言った。 「あんたを信用している」 「こういう勝負は素人が切る方がいい」  新坂はカードを取り、切った。そして、シランスに二枚、自分に二枚配った。  十三年前の勝負が、頭をよぎった。  シランスは三枚目のカードを要求した。ハートの4。自分の手を開ける。ダイヤの6にハートの9。点数は5だ。  シランスの伏せられた札の合計は0から5の間の数。ハートの4は最高にいいカードと見るべきだろう。  新坂も、三枚目を引く以外にはない。思いきり捲《めく》った。クラブの3。点数は8になった。シランスが伏せていた二枚のカードを開けた。ダイヤの3にダイヤの2。シランスは9だった。  やはり、シランスの天才的な引きは衰えていなかった。  負けを知った瞬間、心のなかに眠っていた勝負への執念が、ムクムクと湧《わ》いてきた。新坂は、シランスを見つめたまま、カードを配った。  シランスは8を出した。新坂は伏せられたカードの表面を撫《な》で、気合を込めて捲った。同じく8。  勝負はドロー。  少し運が向いてきたようだ。  三回目の勝負では、シランスはまた三枚目のカードを要求した。開かれたカードはスペードの8。  それほど手はよくなさそうだ。新坂は、二枚のカードを擦り合わせ、開いた。  ダイヤのキングにクラブの10。心臓がきゅっと締め上げられた。点数は零なのだ。  もう一枚をゆっくりと引く。シランスの透明な目が、新坂を見つめていた。  捲った。目の前が真っ暗になった。スペードの10を引いてしまったのだ。  点数は変わらない。零だ。  新坂の鼓動が激しく打った。  シランスは、一言も口を利かず、伏せてあったカードを開いた。スペードの7に、クラブの6。8と7と6で21。シランスはたった一点で、新坂に勝ったのだ。  新坂は、静かに息を吐き、再び、カードを配った。  これで負ければ、自分は死ぬ。掌に汗を掻いた。  シランスがカードをさっと開いた。クラブの9にダイヤの9。ナチュラル8だ。  俺は運がいいんだ。シランスよりも運が強いんだ。心の中で何度もそうつぶやいた。そして、一瞬、目をつむった。そして、再び目を開けると、自分の運命を左右するカードを食い入るように見つめた。  カードの乾いた感触が指に伝わってきた。気合を入れて、カードを開いた。スペードの6に、スペードの3。ナチュラル9。  新坂は初めてシランスを破ったのだ。だが、新坂はにこりともしなかった。シランスも表情を変えない。瞬きを忘れた目には何の感情も現れていなかった。  カードを配る。新坂の躰からすっと力が抜けた。  シランスは、三枚目のカードを要求しなかった。相手の点数は5か6か7だ。  新坂の手は、クラブのジャックにダイヤの4。三枚目を軽く引いて、静かに開いた。スペードの5。  新坂は対戦成績を五分にした。  シランスはじっと新坂を見つめていた。新坂は視線をはずさないまま、カードを配った。シランスはカードをしなわせ、ちらっと新坂を見た。そして、思い切り開いた。  ダイヤの7にクラブの2。ナチュラル9だ。  新坂は何も考えなかった。カードに運命を委《ゆだ》ねたのだ。今さらオタオタしても始まらない。二枚のカードを持った。表のカードはハートの10だった。9を引けば、新坂はナチュラル9だが、9はあと一枚、スペードの9しか残っていない。ゆっくりと二枚のカードをずらした。何も考えずに。  スペードの9。新坂もナチュラル9を出したのだ。  残りのカードがどんどん減っていく。カードを配る。  シランスが、三枚目のカードを要求した。  ハートの8だった。  新坂は自分のカードを見た。スペードのキングにハートの3。  6を引けば勝ちだが、6も後一枚しか残っていない。  三枚目のカードを手首をしなわせて取り、テーブルに叩《たた》きつけた。  ハートの6。点数は9だ。  シランスがゆっくりと残りの二枚のカードをひらいた。ダイヤのAにクラブのA。  零だ! 「君の勝ちだ」  シランスは、柔和に微笑んだ。初めてみたシランスの笑み。 「私も、殺せるものなら、空白の過去を殺したかったよ。妹をよろしく頼む」  そう言うと手元にあったS&Wを手に取り、こめかみに当てた。  シランスの能面のような顔が、少しずつ変化し、泣いているような笑っているような不思議な顔をした。 「シランス……」自分でも何が言いたいのか分からず、新坂は声をかけた。  と、その瞬間、銃声が、キャンピング・カーの窓が割れんばかりに響いた。  シランスが、窓のあたりまで吹っ飛び、目を閉じたまま、ぐったりとなって床に倒れた。  ジプシーたちが、数名飛んできて、キャンピング・カーのドアを開けた。  新坂は椅子《いす》に座ったまま、この世に存在していない男の安らかな死に顔を、ただ見つめていた。 「決着がついたようだな」キャンピング・カーに入って来たロムが言った。 「そこに倒れている男が、ピエロを殺した。それから、奥で気を失っている日本人が、ピエロを死に追いやった人間だ。あの男のことはあんたに任せる」  新坂は、そう言って、キャンピング・カーを出て行った。     23  新坂は車に乗ると、まっすぐ、サン・ドミニック修道院に向かった。  夜道をぶっ飛ばした。何も考えずに。  墓場のところにパトカーが停まっていた。屋根に取りつけられた青いランプが、ぐるぐる回っている。  下に何も着ていない新坂はブルゾンのチャックを上まで上げ、アウディをゆっくりとパトカーに近づけた。 「現在、通行止めです。迂回《うかい》して下さい」 「何かあったんですか?」 「早く行って」  しかたなく、車を出そうとした時、助手席の窓に笑い顔が張りついていた。  ツェリンスキー。奴は、銜《くわ》え煙草で、勝手に車に乗り込んで来た。 「こんなところを、うろうろしているとお前も、参考人として引っ張られるぞ」  新坂は黙って、車を出した。 「今なら、お前に真相を話してやれるぜ」 「もう知っている」 「そうか……。トリプルMは捕まったよ」ツェリンスキーは、短くなったゴロワーズを道路に捨てた。 「女はどうした?」やっと声になった。 「警察に抵抗した正体不明の女のことかな」 「死んだのか」語気が荒くなった。 「いや、かすり傷を負っただけで、あっさりと御用となったさ。俺は、お前が無事だったことを心から喜んでいるよ」 「ひょっとすると、あんたにはユダヤの血が流れているんじゃないのか」  ツェリンスキーは、口許に笑みを浮かべてうなずいた。「お前の調査から外されたのは残念だったが、事情が事情だったからな、あきらめたんだ」 「女はどれくらいで出て来れる?」 「さあな。俺は部署が違うから、よく分からん」 「部署の違う人間が、なぜ現場にいるんだ?」 「利用されていたお前が、ここにいるんじゃないかと思って、やって来たんだよ」 「いくら、大量に人を殺した奴を捕らえるためとはいえ、汚いぜ、連盟のやり方は」新坂は独言めいた口調で言った。 「その通りだな。だが、そんな冷静な判断は、安っぽい平和の中でヌクヌクしている奴の台詞《せりふ》だよ」 「今度は、また違うコラボを狙《ねら》うのか」 「さあな。だが、まだトリプルMの調査は始まっていない。どこに匿われていたかを追及しなきゃならんし、それにトリプルMの持っていた書類や日記が、まだ発見されていないんだ」 「書類や日記とは?」そう訊きながら、新坂はトラヴィアータから預かっているトランクのことを思い出していた。 「トリプルMって男は、噂《うわさ》によると、メモ・マニアで、克明に毎日のことを綴《つづ》ったノートを持っているという話なんだ。それが明るみに出れば、逃走経路、協力者が判明するだけではなく、ヴィシー政権下のリヨンのことが、もっとはっきりするらしいんだ。トリプルM逮捕の次に大事なのは、そのメモを発見することなんだ」  新坂は急ブレーキを踏み、アウディを路肩に寄せた。 「どうしたんだ、一体!」 「そのメモは、捕まった女よりも大事なんだな」 「お前、その隠し場所を知ってるのか?」 「知ってる。今度の事件を担当している人間と交渉してくれ。女を、密かに釈放してくれたら、俺がメモの隠し場所に案内するとな」 「馬鹿を言うな、�彫像《スタチユ》�。そのメモや書類は歴史の暗部をえぐり出す、重要なものだぞ」 「女を返せ」新坂はハンドルに両腕を置き、静かに言った。 「�彫像《スタチユ》�、お前らしくないぜ。慎重に振る舞ってきたお前が、どうしてそんなヤバイ取引を自分から望むんだ?」  新坂は一瞬黙った。ワイパーが雨と街路灯の光を、せわしげに横に押しやっている。 「ハツカネズミしか話し相手のいなかった女なんだ。彼女もトリプルMの犠牲者だよ」新坂はぽつりとつぶやいた。 「何を言ってるんだ、お前は」 「ともかく取引したい」新坂はツェリンスキーを睨《にら》みつけた。 「カタブツの故買屋�彫像�が女に惚れたってわけか」ツェリンスキーは、新坂を見ずにつぶやいた。  正面を向いたまま新坂は「女を返してくれ」と静かに言った。  ツェリンスキーが突然、笑い出した。「ますます、俺の好みの犯罪者になったぜ、�彫像�。分かった。お前の要望は必ず伝えるよ」 「連絡は、俺から入れる」  そう言って、新坂は再び、車を出した……。  新坂は、オペラのグランド・ホテルに偽名で泊まり、毎日、ツェリンスキーに電話を入れた。  四十五年ぶりに、警察の手に落ちたトリプルMの記事は、連日、新聞の一面を飾った。  トリプルMのために家族を失ったユダヤ人や元レジスタンスの闘士のコメントが掲載され、聖職者とヴィシー政権との関係が、改めて問われていた。しかし、トラヴィアータについては、謎《なぞ》の女がトリプルMを助けていた、とだけしか報じられていなかった。  三日後、警察は、トリプルMのメモの一部を先に見せろ、と新坂に迫った。新坂は拒否した。警察に時間稼ぎをさせるのを嫌ったのだ。  一週間後、ついに警察は取引に応じると返答した。新坂は、ツェリンスキーに小細工をするな、と念を押し、二日後の午前零時、ポンピドー・センターの広場に通じているサン・メリ通りにトラヴィアータを連れて来い、と言った。  その通りを指定したのは、ブリジットの事務所が、ポンピドー・センターの広場をはさんで反対側の通りにあるからだ。早めに事務所に行き、警察が妙な動きをしないか監視したかったのである。  新坂は、ブリジットに電話を入れ、預けた物を引き取りに行くが、その際、事務所を数時間貸してくれと頼んだ。ブリジットは、何の質問もせず承諾した。  取引が行われる日、昼過ぎから小雨がぱらついたが、夕方にはすっかり上がった。  暖房がいるほど寒く、冷たい風が吹いていた。  午後九時すぎ、トレンチを着た新坂は、レンタカーのBMWを運転し、広場の周りを回ってから、ブリジットの事務所に入った。  事務所には、ブリジットの他に、人の良さそうな顔をした小柄な男が、ブリジットの子供ふたりと一緒にいた。男は、ブリジットの結婚相手だった。  子供たちは、男にまとわりつきながら、遠目から興味ぶかげに新坂を見つめていた。以前、新しいパパだと紹介された日本人に対して、複雑な気持ちをいだいているのが、新坂にはよく分かった。  ブリジットが二階からトランクを持って来た。彼女の態度。いやに落ち着きがなかった。 「顔色が悪いぜ、ブリジット」新坂が言った。 「そう? ここんとこ働きすぎてるから……」そう言って、ブリジットは短く微笑んだ。そして、おずおずと言った。「離婚手続きのことお願いね」 「ああ。もう少し時間がかかると思うが必ずきちんとするよ」  ブリジットは、婚約者と子供たちを連れて出て行った。  新坂は、十分おきにカーテンの隙間から往来を見る以外は、トランクを前にして、じっと約束の時間が来るのを待った。  トラヴィアータを引き取ったら、まず、贋の身分証を用意し、イタリアまで行き、そこから、ギリシャに入ろう。ふたりの過去を抹殺するには、やはり、暖かい土地がいい……。そこまで考えた時、新坂は、頭を強く振った。  将来のことは考えるな。考えるとツキが落ちる。シランスと勝負した時のように、頭の中を空白にしていなければいけないんだ……。  零時五分すぎ。新坂は、トランクを持って外に出た。  冷たい風が新坂の頬を刺した。周りに目をやり、通りを渡った。そして、広場に入った。  昼間は、観光客や散歩者たちで賑《にぎ》わい、ウィークエンドともなると、大道芸人のステージとなる広場も、夜は、まったく無人地帯と化している。  新坂は広場に立った。外側にむき出しのパイプが走っているポンピドー・センターが右に見えた。  向こうの端に、三人の人影が現れた。左右が男で、真中が女だった。女の髪が風に揺れている。  トラヴィアータ……。新坂の胸がときめいた。  深呼吸をする。そして、ゆっくりと歩き出した。三つの長い影も、重なり合うようにして動き出す。  トラヴィアータの本当の名前を知らないことを、突然思い出した。  いや、彼女には本当の名前などなかったのだ。空っぽの過去を持つ女に本当の名前などあるはずがない。その過去を抹殺し、俺が新しい名前をつけてやる。  まだ、トラヴィアータの顔は闇《やみ》の中に沈んでいた。  新坂は闇に向かって微笑んだ。  その瞬間、銃声が広場に響いた。二発たて続けに。一発目で、新坂の躰は前につんのめり、二発目で、躰は半回転した。トランクが地面に落ちた。 「あの男だ! 髪を後ろで重ねた……」誰かの叫び声が聞こえた。  カルロスの奴か……。そう思った瞬間、新坂は仰向けになって倒れた。新坂の周りに足音が集まってきた。 「トラヴィアータ……」新坂は、そう叫びたかったが、声にならなかった。  やっとの思いで目を開けた。  女の顔……。トラヴィアータとは似ても似つかぬ女の顔が、真剣なまなざしで新坂を見つめていた。  作品の中に出てくるバカラというゲームについて、不明な点は、その筋のことに、すこぶる詳しい樋口修吉氏に教えをこい、氏の作品『舶来ギャンブル放浪記』を参考にさせていただいた。この場を借りて、改めて御礼を申し上げたい。   一九九〇年、十月 藤田 宜永 角川文庫『過去を殺せ』平成5年5月10日初版発行            平成13年8月25日再版発行